国民一億
昭和19年(1944年)3月10日、敗戦必至の状況の中で国民の戦意高揚のために陸軍省報道部が監修し朝日新聞社が発行した「勝たずして何の我等ぞ」。※この一年後となる昭和20年(1945年)3月9日、東京大空襲が起こりました。
「大東亜各国は協同して、大東亜の秩序を建設し、大東亜の親和を確立し、大東亜の文化を昂揚し、大東亜の繁栄を増進し、世界の進運に貢献す」
繰り返される大東亜の言葉。太平洋戦争という言葉など使われていませんでした。
この当時の日本人の人口は、およそ7,400万人でしたが、これに朝鮮人の人口およそ2,600万人を合わせるとスローガンの「国民一億」となりました。
大正14年(1925年)、昭和5年(1930年)に続いて昭和10年(1935年)に朝鮮半島で行われた国勢調査。
都市部だけではなく済州島などの島嶼(大小の島)も対象に、世帯人口から各道(道は日本本土の県に相当)の男女の権衡(男女のつりあい)までを調査・算出して、朝鮮半島の発展のための政策作りを行っていました。
大東亜戦争に負けるまで朝鮮人は帝国臣民(日本国民)として扱われていたのです。
触れない、伝えない、教えない(朝日新聞社と毎日新聞社)
昭和5年(1930年)から昭和6年(1931年)にかけてまとめられた通信区画便覧に残る大阪朝日新聞社 京城支局と大阪毎日新聞社 京城支局。
どちらも京城府南大門通一丁目に置かれていました。
朝日新聞社は京城(ソウル)だけではなく、朝鮮半島第2の都市であった平壌(現在北朝鮮の首都ピョンヤン)、釜山、清津、羅津、、大邱、光州などにも支局を構えていました。
昭和7年(1932年)朝日新聞社主催 第18回 全国中等学校優勝野球大会 地方予選朝鮮優勝試合、東莱高等普通学校(朝鮮人用学校)対平壌中学校のメンバー表と試合結果になります。
昭和7年(1932年)6月、京城高等商業学校 陸上競技部主催、大阪朝日新聞社京城通信局後援の第6回全朝鮮大会の競技結果表。
参加20校の陸上競技優秀選手にも数多くの朝鮮人選手がいました。
朝鮮半島の各種運動競技の大会を後援していた朝日新聞社は、内鮮一体方針下の朝鮮半島がどういうものかを良く知っていました。
それが大東亜戦争敗北と共にすばやく手のひらを返すと、自分たちが朝鮮半島の実情を知らなかったかのように振舞い、戦後作られた朝鮮半島側の歴史認識や吉田 清二のウソ(済州島での朝鮮人女性狩りなど)を用いた反日報道を始めたのです。
触れない、伝えない、教えない(日本放送協会)
この時代はまだテレビはないため朝鮮放送協会はラジオ放送局でした。
大東亜戦争後、放送法に基づく特殊法人として昭和25年(1950年)6月1日に、社団法人日本放送協会の業務を継承する形で設立された組織がNHKになります。
朝鮮のラジオ番組は、本土と同じ気象情報、市況情報、子供番組、邦楽(謡曲や琴の演奏など)、クラシック音楽、運動競技大会中継に加えて、朝鮮各地の伝統音楽、李王職による雅楽の演奏、礼拝堂からのパイプオルガン演奏もありました。
マーカー部分が旧南大門通、現在の南大門路(ナンデムンノ)になります。
令和6年(2024年)8月19日にNHKの関連団体と業務委託契約を結んでいる中国籍の人物がNHKの短波ラジオの国際放送の中で「尖閣諸島は中国の領土である」と放送したことが問題となりました。
従軍慰安婦強制連行問題がでっち上げられた際、「何度訴えても自分たち(引揚げ日本人側)の反証は伝えてくれなかった、連中だって京城(ソウル)にいたのに、社会主義・共産主義の組合が強くてダメだ」と、引揚げ日本人の集まりでは獅子親中の虫の様なNHKへの不信感が語られることがありました。
本日はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。