2021-05-23

2021 05 23 ハイデガー『形而上学入門』を読む。苦労しないといけないと思っていたが意外と読みやすい。序盤はそこそこ長めにとって「なぜ存在者があるのか」という設問を根拠、存在者などに分節化しながら理解していく。大体が現象学的な手続きで紐解かれるべきものではある。「むしろ無があるのではないか」と問う必要があるというのがハイデガーの独創なのかは分からない。存在も無と同じくらいに謎めいているという。
ひとつ気になる(というか理解できない)のは physis のところだ。少なくともはっきりしているのは、タレス以来の自然学を発展史的な見方から捉え直しをしようとしていることだが、かんたんに脈絡を振り返る。大概 natura と翻訳がなされる physis であるが、これをハイデガーは動詞 φύω (to produce, make, grow) との関連から aufgehen sich つまり自己発展し展開するものであると捉える。もちろん端的に産出やら生産やらだけでは natura と変わらないので、ハイデガーは慎重に「自己の-中で-自己-から-出で立つこと In-sich-aus-sich-Hinausstehen」(33頁)と補足する。こうしてハイデガーは、ギリシア人は自然現象において physis の何であるかを経験したのではなく、思弁的領域から physis と言わざるをえない何かを捉えていた、という捉え返しを行う。physisとは「それ自身から立ち現れてくるもの……、自己開示する展開、そうした展開において現象に歩み入ること、その現象の中で自己をつかみ止まること、端的に、立ち現れ止まる支配 das aufgehendverweilende Walten をいう」。〔S.11, 32頁〕端的に自然の始まりを語るだけならば神話的な叙述によって事足りる。しかしながら、自然がそれ自体の原因となってそれ自体が生成消滅することを概念化する契機は、端的に自然を眺めているだけで成立するものではない。神話的なナラティブと哲学との間には根本的なギャップがある。この事情をハイデガーは physis において認めている。初期のドゥルーズならば基礎付け le fonder に認めるところだろう。ところがハイデガーは physis を超歴史的なものであるとは認めず physis にギリシア哲学の独自性を見出す。というのも、われわれが「心的なもの」としてこんにち思い浮かべるような対立は physis にはないからだ。心的なものとされることがらも physis は含む。むしろ対立されるのは techne であるという。「むしろ知ること、知ることで自由に計画したり整えたりすることを使いこなすこと、および整えについて思い通りにする(支配する)こと」。だがこの整理はギリシア哲学でもむしろ後代にならないと成立しないものではないだろうかと思わないではない。管見ではあるが、例えばイタリア半島で起こったピュタゴラスやゼノンのような見解はphysisの内部に操作としての Wissen を取り入れようとして混乱を招いていたのではなかったろうか。とはいえここはハイデガーの注意を向けるところではない。むしろ重要なのは physis が techne のごとくことがらを思い通りにすることではなく、立ち現れ止まる支配 das aufgehendverweilende Walten であるというこの事情に他ならない。この支配は歴史的なものやエートスをも取り込む。しかし支配を超える論点を見出す。それが「なぜ一体、存在者があるのか、むしろ無があるのではないのか Warum ist iiberhaupt Seiendes und nicht vielmehr Nichts ?」という問いの所在である。形而上学だ。明らかにここでのハイデガーは形而上学をかなり限定的な意味で利用している。
しかるに、形而上学は歴史的な問いである。歴史的という語にハイデガーは独自の含蓄を与えている。すなわち、「出来事としての歴史は未来から決定づけられたもの、過ぎ去ったものを引き受けて現在を通して行い続けたり耐え凌いだりすることである。現在とはまったく出来事において消尽するものである」(S.34)。歴史=出来事は現在という射影を通して明らかになるが、他方で現在は歴史に埋没する。ハイデガー自身はっきりと言っていないが、それは精神が捉える領域であり、ドイツ観念論において検討されたものに該当する。この点でハイデガーは実証主義とマルクス主義(アメリカとロシア)における精神の忘却を指摘し、未完の形而上学をドイツで実現しようと試みることになる。とはいえ、それはドイツ観念論の復権ではない。
興味深いことに、ある時点で、「なぜ一体、存在者があるのか、むしろ無があるのではないのか」という設問からは、「先行する問い Vor-frage」として「存在はどうなっているか」が引き出される。そのうえハイデガーによれば、その問いはもはや「存在論的」とは呼ばれるべきでなくなる。ただしいわゆる「存在論的差異」まで放棄するほどの転回があるかというと少し微妙ではある。ハイデガーにとってはもはやどうでも良いのかもしれない。

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