essai

#np にかえて

essai

#np にかえて

最近の記事

蔵書整理に関する覚書

0/この記事は何か 表題の通り、我が家の蔵書整理備忘録。 1/何があったか引っ越しの準備をしたところ、本とCDが致命的に多いことに気づいた。 2/ガバガバフェルミ推定某引越業者の段ボール(33×35×32cm)に40〜60冊入り、それが15〜20箱程度ある。 だいたい600〜1000冊はある。 3/感想想像していた以上に多かった。 60冊くらいだろ、と思っていたらオーダーすら違っていたことには驚いた、というより途方に暮れた。 途方に暮れているばかりでは居住スペースが致

    • アレンジメント

      中高時代、たまにハードダーツをやることがあった。パブとかにあるダーツよりもすこしオーセンティックな装いのアレである。そこでは必ずアレンジの話になる。同じ501点までたどり着くにも、複数のアプローチが生じる。必ずトリプル20に入るわけではない。もちろんトリプル20を狙うのは定石なのだけど、いろいろな狂いでとっさの判断が求められる。アレンジ表には2から140まで何十にも及ぶレシピが書かれているが、これは古文の活用表のようなもので、繰り返すうちに覚える。アレンジとは予告された即興の

      • A

        なんの大した話でもない。必要に感じてその都度書けばいいのだ。口述筆記から自由になる、というのはその気になれば書くことができる手段を持っている、という程度のことであり、何も手段が剥奪されていれば自由かどうかなど考える余地もないし、逆にいかなる時間にあっても書くことに強いられているのであればそれこそ自由からは最も程遠いところにいるだろう。もちろん僕の中にいるスピノザ主義者が自らの原因について知ることがないなら自由だと錯覚できるだろうと言う。そうだ、盲目的で居られるなら自由で居られ

        • après l'imaginaire

          ここでフィクションについて考えよう。 存在であるところの神の言葉が聖書という現実態を持ってきたのは私たちがこのエクリチュールによるほかに神を理解する能力を持たなかったという認定がおそらく大前提となる。プラトンやトマスをはじめとする神学のテーゼを確認すれば明らかになるように、私たちは現に存在するエクリチュールを追認することをやめない。さらには、そこで確認されている善がなぜ善たりうるのかについて思考を重ねることはあったとしても、そこにない善について想像することはない。それゆえ、エ

        蔵書整理に関する覚書

        マガジン

        • 日記
          14本

        記事

          20220427

          さんざっぱら言われたのでもう何かを見返す気にもならないのだが、どうにも次のようなものが確信としてあることだけがはっきりした。つまり、僕は最初から定型者にはいかなる期待もしていないということだ。最初に言っておくが、僕はASD/ADHD当事者だ。仕事がままならないだとか、人といつでも疎遠になるとか言ってくだらない「共感」を呼び寄せるつもりはまったくない。そういう情のやり取りをできるやつらは、そっちでやってくれ。僕の視界には入れないでくれればいいんだ。そうじゃなくて、僕は「共感」の

          アンテナ

          「アンテナが張るようになったんやな」、その一言はまさしく正鵠を射るものだった。酒を飲む、電車に乗る、タバコを吸う、百貨店でコスメを探す、等々の行為の全て(より正確に言えば、五感に関わる行為の全て)が、何らかの知識に裏付けされうることがらに他ならないと気づいたのは、仕事を始めて一ヶ月経った頃だった。帰省して東急1000系1500番台電車に乗った。形式としてはデハ1600に該当する車両だ。羽田から降り立ち、京急羽田空港線で都営の5500形電車に乗った時はそうでもなかったが、池多摩

          アンテナ

          始めること、あるいはとてもありえぬこと

          nur-Möglich、ということばがヘーゲルの大論理学でたびたびでてくる。可能的なものはいまだ現実的ではないのだが、不可能であるわけではない。やがて起こりうることが約束されているわけではないが、起こりえないことを確約されているわけではない。したがって、とてもありえぬことと解釈されうる。とか海老澤善一が彼の著作で書いていたことを記憶している。 わたしがGrenzstehenという造語で書こうとしたことはいつまでも自分自身に向けた創作論の域を超え出るものではなかったが、それは

          始めること、あるいはとてもありえぬこと

          ワイン抜きがき(#1)

          不定期で書いていく。 定番となる品種: 白:シャルドネ/リースリング/ソーヴィニヨン・ブラン 赤:カベルネ・ソーヴィニヨン/メルロー/ピノ・ノワール それぞれ味わい基準となる品種/よりloudな味わい/すっきりひかえめの分類。 旧世界と新世界の分類。傾向性としては、旧世界:ブレンド多め/新世界:単一多め。もちろん各国によって使っている品種は変わってくる。メジャーな品種が多いのはチリで、チリ産から見ていくと良い(∵虫害を回避)。アメリカ産は研究されていて、それゆえ純粋。テイ

          ワイン抜きがき(#1)

          志望理由 草稿

          正直なところ歴史をやろうとしていた。しかし歴史研究したいとは言えど、歴史の重要性を捉えるのは哲学である。ところで、哲学で規定性が登場しても哲学研究で問われるのは規定それ自体の歴史的過程の全体だった。したがって存在や無限などのもっとも基礎的な概念を切り口に哲学史をやることが重要になる。私の感覚としては哲学史それ自体に基礎的概念を見たい。ただそんなことは哲学史研究者は誰もが確認する裏テーマなので直球では勝負できないから、より特殊的な基礎的概念を追う必要がある。(誰もが、というのは

          志望理由 草稿

          私の仮説だけど

          運動は徹頭徹尾辺境を規定することを通して主流を転覆することだったはずだ。しかし、この辺境の徹底という路線の一方で、あまりにもマジョリティのど真ん中が反動的すぎるから部分的にでも相対的な辺境の階級闘争に合流する段取りを踏まないといけない、という路線もなんとなくは共有している。両者を自分のなかで一致させることが今の課題になる。つまり、周辺と中心、そしてその統一である。これをヘーゲルから読み解く。もちろん現在の時代状況においてヘーゲルをどう読むかということを実践的に語る場合には、ヘ

          私の仮説だけど

          ニーウアムステルダム あるいは忘却をめぐる私見

          時刻は18:24を指していた(指していた、というのは違っていて、表示していたのだが)。いま、東海岸時間はまだ朝を迎えていないだろう。だからと言って何というわけでもないが。 此れと言ってすることはなかった。いや、していた。DJコントローラ、MIDIキーボード、あとなんだっけ。アニメのショッパーとポスターと、そのへん諸々だったか。つまり、いつ買ったかも思い出せない代物ばかりを携えて、旧居から帰ってきたのである。2079円で買ったカートに積み上げて。 京阪の準急列車は、ちょうど複

          ニーウアムステルダム あるいは忘却をめぐる私見

          結局踏まされているのは私の方だった

          急ごしらえでガムテープを貼っていく。段ボールに乱雑に本を入れていき、空いているスペースに服をねじ込める。そうして出来上がった20箱近くの段ボールを積み上げて、玄関口の近くに寄せていく。まだ残っている荷物があるからと、やってきた配送業者に適当な指示をしながらさらに荷造りをしていく。『スカーフェイス』の後半のシーンで、悪徳弁護士が夜逃げするシーンを思い出した。さながらこの地を逃げ果せて「飛ぶ」間際であるかのごとき気分に襲われた。 大阪の地は暖かかった。きたばかりの土地で人が暖かい

          結局踏まされているのは私の方だった

          戦争と戦争行為

          「号外が出たんだよ」 アイスカフェラテを飲んでいるときにマスターにそう言われた。堺筋線の駅にあるカフェでのことだった。地下商店街の一角、18時閉店直前の狭いカウンターでは、低画質のVTR画像が放映されるのを背後にナレーターの声が無機質に鳴っていたが、それは表の通勤客の通り過ぎていく声や暖房の音に掻き消されていった。ウクライナ政府の関係者は戦争が始まったと日本語で盛んに発信している。戦争が始まったらしい。「僕が高校生だった時は、当時のソビエトがミサイルを大量につぎ込んできてね。

          戦争と戦争行為

          短い人生とか言うのはごめんだ

          人生なんてひどく退屈なものだと思うよっていうと、お前が退屈だからだよってあんたはいうだろうけど。知ったことではない。とにかく退屈なのだからそうとしか言いようがないのよ。もちろん、あんたが当てこすりしているわたしの像を通してわたしの妄言をデタラメに解釈しないでくれ……とは言わない。ただ少なくとも、あなたはすごい無駄なことに労力を割いているよね、とは思ってしまうだろうね。なぜというに、そんなことを言ったところで、わたしには自分自身の退屈さと自分の人生の退屈さに必然的連接を見出すこ

          短い人生とか言うのはごめんだ

          誠実性と概して歴史について

          最初は「一日」と題して今日やったことを書き連ねるつもりでいたが、7:35現在起きてエナジードリンクを飲んだくらいしかやっていない。これだけで書けと言われたら、三島由紀夫なら平然と2枚くらい書いてしまうのだろうが、残念ながら(あるいは幸いにして?)わたしにそこまでの力量はない。もちろん字数を埋めること自体は造作もない話なのだが(なるべく思弁的なことを書きさえすれば良いのだから)、そこに機制やダイナミズムを盛り込もうとすると、挙句失敗する。あくまでもVeranstaltung,

          誠実性と概して歴史について

          始めようとおもえなかった

          iTunes Stationはハズレのない曲が連続で流れるから良い。それはそのはずで、自分の好きな曲からレコメンドされてくるから外れるはずがない。JD、レディへ、ナンバガ、バズマ、teto、……あげればきりがないがとりあえず好きなものが揃っている。普段のようにアルバム聴きではないから、次に開くアルバムを考えなくて良いのが、なかなか好都合だ。それにしても、好きが揃ってるか。あまり考えなかった感覚だ。 だいたい、地雷よけが基本になっている。私も避けられる側だったり、避ける側だった

          始めようとおもえなかった