結局踏まされているのは私の方だった

急ごしらえでガムテープを貼っていく。段ボールに乱雑に本を入れていき、空いているスペースに服をねじ込める。そうして出来上がった20箱近くの段ボールを積み上げて、玄関口の近くに寄せていく。まだ残っている荷物があるからと、やってきた配送業者に適当な指示をしながらさらに荷造りをしていく。『スカーフェイス』の後半のシーンで、悪徳弁護士が夜逃げするシーンを思い出した。さながらこの地を逃げ果せて「飛ぶ」間際であるかのごとき気分に襲われた。
大阪の地は暖かかった。きたばかりの土地で人が暖かいなどと言ったらただの間抜けだが、空気に熱があることは確かだった。もちろん海から風が入ってくる分の熱があるのだが、それ以上にやはり、物流の賑わう都会であることが強かった。隣の京都は市民のための歓楽街はあっても、規模も小さく、ましてやモノが市内外に行き交うことはない。大阪ならそのあたりの融通が違う。酒もネットを通さず安く手に入る。肉や野菜も充実している。もちろん都会の「遊び」が金を使うことでしか成立しない、とスノッブな人たちは嘆くだろうが、私のような即物的な人間には、物流に勝るものはない。物流に乏しいところにいつづけると、少しばかりひもじい気持ちになる。大阪に荷物が届いて、机や調理器具を並べたとき、胸が空く思いがしたものだった。
遠くに行きたいとは思わない、かと言って馴染みの場所にへばりつきたくもない、とか言った気がする。嘘をついてしまった。遠くに来てしまった。馴染みの場所には、嫌悪感すら抱く、嫌味な奴がいっぱいいる場所になった。思えばひどくくだらないことを言ってきたように思う。

私のテーマの一つに脱構築があった。どうやらデリダは1967年の連作で色々なことを書いているが、ここでは単純に、二元論を徹底して使うことによって自己内矛盾を引き起こし、それを破棄する、くらいの意味合いで使う。曰く付きの言葉ではあるが、隠喩を使うよりもわかりやすい用語なので、使っていく。いま確認したことから明らかなように、二元論に登場する二つの項目をエレメントとして操作することは想定していない。むしろ二元論の渦中に入りこみ、自らをエレメントの一つとして参加させることを想定する。この場合脱構築は常に実践的なものになる。論文と小説の、性の、社会と個人の、経験的なものと超越論的なものの、等々の脱構築。それだから私の文章は常に手探りの方法で、実験的に書かれてきた(私の文章が下手だという評もあるが、実験的なテクストに完成度を求めることの方が無粋である)。ここでは二元的に対立するあらゆるものの内部に潜り込み、その心奥にナンセンスを発見しこれを放逐することをもって、想像力の彼岸に到達することを目指してきた。
ところが、一つの問題が発生する。脱構築的実践を行う私の位置はどこにあるのだろうか、という問題だ。例えば、私がセックスに関する文章を書いたとする。それをシス男性として、シス男性の視角から書けば、私自身の持つ構造的な優位性から、必然的に搾取的な内容によって埋め尽くされる。その一方で、私はその視角を——共有することは可能ではあっても——わざわざ表明することに極めて嫌悪感を覚える。私自身の持ち物として、違和感を禁じ得ないからだ。ところが、私がどう書いたとしても、この読者は、あなたは、私のことを、(あなたが現実的にどうするかはともかくとして、あくまで可能態の問題として、きっと)何らかの属性によって評価することができると思う。私は、宛先に届けた時点で、差出人名を刻み込んでおり、そして私がその差出人の名前を恣意的に書き改めることはできないし、あらかじめ書いておくこともできない。私の属性は、私が書く「私」という主体のただ中に事後的にしか現れ得ない。そしてそれに追随する形で、私も自己意識を形成する。したがって、私は自分から境界線を踏みにいくことはない。きっと一貫しているだろうことがらを書いた後になって、気づいたら私の上に境界線が引かれ、ハラワタの中心に切り取り線が浮かび上がっている。すんでのところで自己分裂を招くところにいる。らしい。

ゲイとして働くことになった。ゲイとしてまなざされ、セックスに関する話もゲイであることを前提として展開される。タチかウケか(リバか)の二元論である。髪型をセットしたら、ひどく膨れ上がった横髪が不細工に鏡に映った。記憶の中で、ヘアスタイルカタログの黒髪ストレートが揺れる。何杯も酒を飲んでいるはずなのに、全く酔いが回らなかった。三半規管は正常だった。しかし頭は痛かった。睡眠薬を突っ込んでも三時間しか眠れなかった。

私が何者であって、何を欲していて、とかの話を延々と繰り返しても意味がない。誰かを欲望していて、その誰かが偶然どういう人だったか、といったことに大した驚きは感じない。ただ、そうした私の欲望にどういう名前がつくのか、ということ。そして、自分の持つその人への欲望に向かって、私が何を演ずるのか、ということ。そこではもう、境界線を解体するとかの以前に、私は社会的に「何者」かにさせられてしまっている。

とはいえ、そんなことは関係なくて、ただ都合の良い立場に安住したいだけなのかもしれないけど。

……やはりくだらないことに思えてきた。寝よう。

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