誠実性と概して歴史について

最初は「一日」と題して今日やったことを書き連ねるつもりでいたが、7:35現在起きてエナジードリンクを飲んだくらいしかやっていない。これだけで書けと言われたら、三島由紀夫なら平然と2枚くらい書いてしまうのだろうが、残念ながら(あるいは幸いにして?)わたしにそこまでの力量はない。もちろん字数を埋めること自体は造作もない話なのだが(なるべく思弁的なことを書きさえすれば良いのだから)、そこに機制やダイナミズムを盛り込もうとすると、挙句失敗する。あくまでもVeranstaltung, zu uns geschehen について想像できうるうちのほんのいくつかの視角から解釈を試みているだけであり、それは見る人をひどく退屈にさせるだけだろう。

海老澤『ヘーゲル論理学研究序説』で、建築術的叙述と小説的叙述、という二項対を見た。すなわち、あらかじめ設計図が頭の中で構成されていて、その部分を内容として記述していくか、各局面において全体が現れることを企図して描き、叙述の部分においてはひとつの全体の姿を形成していくかのどちらかである。この本ではヘーゲルの『論理学』はその両方の姿を持つという。
この話はわたしの書けなさにつながるのかもしれないと思って触れた。わたしは比較的一行ごとに読む傾向がある(すなわち、小説的にである)ようで、一行一文字に全体が指し示されていないと気が済まない(あるいは、そうした強迫観念が形成されるように教育を受けてきたと自認している)。これもひどく悪い癖だと思うが、しかし、1/作家の書く一文字一文字に質的な強度があり、そしてそれらの間には関係(比)がある、そして2/それが個体的に量的判断を下しうるものではない、という認定は、わたしの作文のある程度の骨格となっている。そうした身体性にあって、アドルノの文章は読みやすいし、後期フィヒテの宗教論講義も、なんなら『精神現象学』も読みやすい部類に思われる、というと何かものすごく大仰なことを言っているようにも見えるかもしれないが、その分ろくすっぽに読めない文章もあるということだ(例えば、分析哲学の「お行儀良い」文章はとてもじゃないが読めない)。しかしその一方でいわゆる paragraph writing に相当する作業について一応の訓練を受けているものだから、自分の小説的自分の作文でなんとかそれを反映させようとする。主張があって、根拠1、2、3、……結論。ところが文章を書いているうちに結論は主張の廃棄として生成される。結論は主張の否定であり(さもなければ不可能だ)、逆に主張は結論の否定である、結論はそれ自体においてそれ自体に対する否定性を含むから、主張に比べると本質的である、云々。それはひどく読者を混乱させるものだろう。とくに建築術的な文章を書きなれている読者にとってみれば。ああ、この時点で、あなたを飽き飽きさせているに違いない!
わたしは、端的に引用されうる(テクストは常に間テクスト的である)ということそれ以上に、テクストの内在的な転覆を通してテクストにある種の意識を再現しようとする。すなわち、テクストが一人歩きすることを危惧するばかりか、期待すらしている。この、まだ不可能とされる科学を実践しようとしているにすぎない。というのは、科学は常にわれわれの意識とその意識が形成する対象(環境)との相関の複数的な研究に他ならないからだ。わたしはここで唯物論者やマオイストとともに生活してきた哲学者のいう「相関主義」を支持している事を認めざるを得ないだろう。ところでこの「科学」の実証性を、わたしはいかにして担保することができるというのだろうか? さて、(科学の)実証性、それは誠実性のことである。いかなる誠実性か。科学者共同体の中でヘゲモニーを獲得する上での手続き上の誠実性である。(これこれの補題を、この方法を通して、この文脈のもとに利用して……)概して「誠実性」自体が、検討に付されなければならないのではないか。
誠実性は否定される。というより、誠実である意識はやがて否定される。わたしが常にまともに生きていることはできない。やがて内部分裂を引き起こし、肉体の中で発狂を起こしながら死んでいき個体としての機能を失うだろう。しかし、その一連の契機を破棄することを通して、わたしは次の段階に生成変化する。それは良いか悪いかという価値判断の及ぶところで言えば悪いとしか言わざるをえないところのものにあたるかもしれないが、ある意味でわたしの本質的契機である何かである。もちろんこれはある種の悪趣味的な露悪に与するものではない。そうではなく、「悪」との相関をいかにして捉えるかという倫理の問題に他ならない。
戦後の旧枢軸国でしばしば中心的だった思想の多くは悪との距離の取り方を見誤っていたと断定しても良い。つまり、悪を狂乱、精神異常、非日常的、等々のわれわれとは異なる何かとして規定しているところに誤りがある。そればかりか、論理的な誤りがある。是に於て「われわれ」はこの規定されていると思われる「悪」を通して規定されているからだ。ここでわれわれと悪は否定的契機であるが、この規定は「われわれ」の契機を没本質的なものにしかなしえないだろう。この代わりにわたしたちは悪(言い換えるなら、否定性)をわたしたちの内部に見ることにならざるを得ない。必要がある、と言っても良いのかもしれないが、あえてやるものではなく、そうする他にない退っ引きならない状況に追いやられる、というのが正しい見方だ。戦後民主主義もフランクフルト学派(第一世代)も、この絶対的な契機についぞ到達しなかったのではなかろうか?
より根源的に誠実であろうとする意識が誠実である意識よりも絶対的なのは次の理由による。すなわち、後者の意識は誠実性を自らのうちにすでに含んでいると思い込んでいるが、前者の意識はその限界を自覚し現在の自らの誠実性を再検討する(それだから比較級は「根源的に」かかっている)、ラディカルなものにしていこうとする傾向を持っている。それゆえに端的に誠実であるより、誠実との否定性を自らに引き受けるという契機を含んでいるというその点において絶対的である。科学は意識の歩みではないが、対象との相関そして「対象-意識」という契機が意識のもとに成立する事柄であるという確認のもとに意識を転換する、そしてその歴史的布置を検討するという作業以外のものを、科学的と呼ばずしてなんと呼ぶべきだろうか? わたしたちが「科学」と呼ぶものについて、わたしたちのほとんどが厳密に考えようとはしてこなかった。そもそも「科学」についてそれがなぜ「歴史」と同じ言葉で語られるのかについて大真面目に考えたものは、さらに少ない。予言的に言えば、歴史に先行するいかなる個別科学も存在せず、科学の本質的契機は歴史に他ならない。それはまさしくアリストテレスの動物誌がnatural historyであり、historyそのものではなくその類である点からも明らかであると言って良いだろう。なぜというに、歴史は「現在」という普段に続くかに見えてつねにすでに廃棄される運命にあるエレメントを、——そうではない時間性をひとつの「図」として照らし出すことを通して——ひとつの「地」としてあばきだす作業に他ならないのだから。わたしたちは現在……ということによって、現在でもあるが、しかし現在でもなくなる。しかし歴史的に……といったときわたしたちはつねにその契機を放棄するいかなる理由も持ち合わせない。歴史的でなくなるという言明は、あくまで相対的なものである。絶対的に歴史的でないものは存在しない。それが現在というつねにすでに歴史に回収されてしまう非本質的契機を通してどう映るかという問題に過ぎない。


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