20220427

さんざっぱら言われたのでもう何かを見返す気にもならないのだが、どうにも次のようなものが確信としてあることだけがはっきりした。つまり、僕は最初から定型者にはいかなる期待もしていないということだ。最初に言っておくが、僕はASD/ADHD当事者だ。仕事がままならないだとか、人といつでも疎遠になるとか言ってくだらない「共感」を呼び寄せるつもりはまったくない。そういう情のやり取りをできるやつらは、そっちでやってくれ。僕の視界には入れないでくれればいいんだ。そうじゃなくて、僕は「共感」の中からは取り出される、しかししばしば「論理的」とみなされうる弁論の類からはも最初からなきものとされるようなことがらについて関心を持ち続けている。最初から気づいておけばよかったのかもしれないが、それは自閉症当事者としての当事者研究そのものなのだ。
僕はあらゆる出会いを見過ごしてきた。音楽、小説、酒、……何もかも逃してしまった! むしろ僕は性関係はないということによって自らを慰めるだけだった。性別二元論的な価値観の元に構成されうるような普遍的な性的関係など存在しないんだ、シスだろうがなんであろうが! そんなものはどうでもよかった。どうでも良いのだ。せめてマシなものを探求できれば良い。それがなんだっていうんだ? 哲学か? 面白いな。けっきょく僕を魅了してくれて、かつ癒してくれたのは、いかなる自然科学でも、いかなる文芸でもなかった。哲学、ただ哲学だけが、僕の意識を癒し、歴史が僕の精神を呼び起こしたのだ。僕が歴史に立ち入るならば、僕は哲学を学ぶ必要があった。ところで、哲学は花の観察日記のようなものだ。日記が「桜が満開になりました」では、シベリアに送る手紙でしかないだ。そうではなく、花がいつ芽吹き、花を咲かせるか、この運動の全体に僕は興味を示した。哲学が全体であるというとき、それは自らの歴史的存在を内包する、と僕は理解している。それだから僕は哲学史に無頓着ではいられない……最初の「意識」の段階においてであったとしても。僕は「意識」において自らの哲学的ないし論理学的技法を歴史的に問い直す。果たしてそれがいかなる妥当性を帯びているかは、後になってみないとわからない。しかし精神は違う。精神はそれらもすべて込み込みで把握しており彼は僕の振る舞いすら……。そんなことは定型的なヘーゲル読解の一つに過ぎない。それ以外の外に僕は向かわねばならないのだ。僕は、その外に……。


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