2021-05-10

修得の弁証法について 一週間が始まる。平日というのは大学の授業が挟まるから勉強が進まなくて嫌だ。とはいえ(単位取得的に、かつ将来的に?)入れないといけないことがらはあるので、入れていく。
それにしても学部の卒業が近づくたびに思うことだが、自分の修得したことが何一つなかったとは言わないにせよ、単にわらくず同然のようなものな気がしてならない。より控えめに言うと、世界を理解するための範疇およびその使い方について、自分は結局ほとんど何も知りえなかった、という確信だけを残して卒業していかないといけないことが、非常に恐ろしいことのように思われてならない。
ただはっきりしていることは、その知らないことがらをいかにして自分のものにするかという、その修得する「過程」の形式を身につけることには、多くの学部の授業の役に立つところである。そこにかんしては多少の自信を持ってもいいはずだ。とはいえそういった意味での有用性は、おそらくカント先生に言わせるなら、有用性ではない。というのも、有用性とは端的に理性の立法によって成り立っていることを意味するものではなく、むしろ国家からの規範(教義、法規、行政)によって基礎付けられるものだからだ。とはいえ、「修得」それ自体が「有用である」とはどのようなことを意味するのだろうか。
例えば自然主義的な見立てでいうなら、それは端的に、修得に帰属するひと(つまり修得者)がどれだけ有用であるかということがらに依存するところであり、要するに「有能か」どうかという主観性に基づく。しかしそれは、その人のバックグラウンドによるところが大きすぎるかに思われる。例えば、英語がネイティブスピーカー同等にできる学生は、英語で発話されるものを知ることはできるが、かといって英語で発話されているそのことがらを理解することとは必ずしも一致しない。とはいっても、もし英語(より広くいって、母語以外)で書かれたものを理解できることが可能的であるそのていどを推量することには役立つだろう。
しかし、理解できることと修得していることは異なる。つまり、修得していると言ったとき——単位修得の条件に筆記試験やレポート試験が課されることからも明らかなように——それは単に理解しているだけではなく、その理解を通して表現することができることにかかっていることにある。それだから「受験英語」は役立たないなどという謂れは免れえないかに見える。しかし受験英語に出てくる程度の基礎的な文法を知らないで、いかにしてジョン・ロックを読むことができるのだろうか。ところで、受験英語に出てくることがらの多くは、それが試験に出てきて受験者に回答を迫るものである限りにおいて、表現されるものである。
したがって、次のように言わなければならない。「受験英語」は全き表現に役立っているのであり、それが役立たないかに見えるのは、英語と言って私たちが想定していることがらが「受験英語」のそれと微妙なズレを起こしているという事情に負うているのである。一般に、「修得」とは「理解」に加わって「表現」が要請されることは試験の構造から明らかになる。「修得」の形式とは「理解」と「表現」の形式である。その場合、「修得」の形式を獲得したと言ったとき、我々は理解することを通して適切に表現することができるかどうかを問われていると言っても過言ではない。そしてその表現とは、端的に言うだけにとどまらず、「外に押し出す=表現する ausdrücken」こととして分節化される。つまり、ことがらを自分で納得するだけではならない。ことがらを端的に理解している状態は、ことがらを理解していることを証明するための客観的な水準に至っておらず、理解しているのに理解しているとは言われえないという矛盾に至る。この矛盾は「外に押し出す=表現する ausdrücken」ことの生産物の価値を判断することによって止揚される。表現 Ausdruck によって修得しているかどうかの審級が成立する。
こうして修得とは表現 Ausdruck になった。それゆえ「修得」の「有用性」は表現 Ausdruck が有用であるかどうかによって判断されなければならない。この定立から、世のいわゆる「資格を取っていることが就職に繋がるとは限らない」という風説は、ほんの一歩のところにある。そこでは、ことがらについて「外に向かって-押し出す」ことができるかが問題になる。それは端的に所蔵印を「押し出す」蒐集家的な性癖から止揚されたものである。ところが「外に向かって-押し出す」ことは、押し出されたことがらが理解されることが求められる。それというのは、押し出されたことがらもまた、もう一つのことがらとして認定されるかどうかは、自明ではないからだ。その限りで押し出されたことがらは未だ即自的である。押し出されたことがらが理解されるには「それはことがらである」という命題が成立しなければならないが、即自的な表現は未だそれを成立させられない。この矛盾において表現は伝達へと名をあげることになる。すなわち、修得は表現であり、伝達となる。
以上の運動にしたがって、大学で学ぶことがらはなんであるかという問いに伝達と答えることができる。端的に専門知を学ぶことは、意味のないわけではないが、いまだ直接的である。専門知を正確に表現し、伝達できるかどうかが、大学においてことがらを修得したかを知りたいときに、人々の興味の湧く(べき)ところなのである。逆に伝達が成立していない場合、大学において何を学んでなどいないではないかと誹りを受けても仕方のないことなのかもしれない。俗にコミュ症などと言われる属性があるらしいが、上述した運動において修得を捉え返すならば、コミュ症とは端的に絶対的な修得に到達していないことを意味するにすぎない。
伝達についてはまだ問題が残っている。特に伝達の成立をいかにして基礎付けるかは問題含みだ。それというのも、伝達それ自体が上述したようなナラティブによってしても、いまだ抽象的なものでしかないからだ。そしてまた伝達はなんらかの根拠や基礎によって規定されるべきものであるかも、われわれには開かれている。『廃墟の中の大学』におけるビル・レディングズはこの問題を開いたまま、あくまでも「不同意の共同体」という拠点として大学を位置づけるだけにとどめている。しかしながら、ぼくが思うに伝達は、各大学に固有のしかたで成立している伝達過程を歴史的発展の中で位置づけることによって、すなわち、あれではなくこの伝達の運動を明らかにすることによって、その方法を明らかにすることはできるのではなかろうか。ぼくの所属している大学の場合、どう適切に作動するのかはよくわからないけれども。

2021 05 10 月曜日の朝はどうしても10時台まで寝てしまう。
授業後時間を見つけて荷物を受け取る。とりあえず直近で欲しいものは全て揃った。あとは詰め込むだけだ、となれば良いのだが、あいにく短い論文を書くのに度々大学に通う必要がありそうだ。
とりあえずドイツ語の単語帳を開ける。専門用語はともかく絶対に外せない語彙は入っているらしい。
授業後、レポートの下書き。測度の拡張の理解が全然なのでかなり自信のない答案ができた。あくまで構成するだけで、そんなに気負う必要もないのだが、証明の計算が追えていない状態で書く答案にあまり内容が伴うとも思えない……。

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