2021-05-07

何につけても記録しないことには仕様がない気がしてきた。というのは、次のような理由からだ。目標や着地点(ここでは大学院入学や就職などの、何らかの進路)が何であるかが明らかだったとしても、そこまでの道程が——完全に妥当な道程などというものはもとより期待しないつもりであったとしても——完全に誤ったものであることを避けるためのいくつかのメンテナンスが必要だった。そしてそのメンテナンスには、いま、ここで何ができていて何ができていないかの精査が要請されると思われるからだ。ただしそうは言っても、普遍的なもの das Allgemeine を話す気はならない。というのは、いくら客観的ないし絶対的な思弁とやらが公共物となってわれわれの前にあったとしてもそれを使用することは依然として主観的な段階にとどまっているからだ。そんなものがたとい京阪三条の土下座像前に置いてあったとしても、たいてい見向きもしない。いわんやそれが浩瀚なテクストにおいて繰り広げられる一件として曖昧模糊にみえる議論において見出されるような場合にあっては、なおさらである。それだからわれわれにとっては、個別的なものから始めることが(必定ではないにせよ)大きな誤謬を生み出さずに済む方法であるかに見える。しかしながら、その個別的であるとは一概に純粋なる個別的経験として位置付けて良いものとはいえないだろう。それというのも、よしんば個別的であるとして規定された経験だったとしても、それは社会的、集団的な諸前提を自明視したものとして現れうるからだ。バカロレアからグランゼコールに進学した大学生の就職活動の事情が、いま日本語で書かれているこのテクストという特殊状況において、フランスの「大学」の制度、そもそもフランスにおける高等教育のあり方の特殊性などにかんする翻案が要請されるのと同じように、個別的である語りもまた、なんらかの社会的コンテクストにかんする一つのコンセンサスが求められることは変わりがない。ただしそれは、必ずしも個別的である語りがなんらかの社会的コンテクストに規定される bestimmt ということを意味するものではない。しかし社会的コンテクストから脱文脈化されたしかたで語りを行うことは、必ずしも簡単なことではない。すなわち、テクストの内的な語りがコンテクストでいかなる配置 constellation を形成しているのかを無視して、テクストを形成することは、伝達可能性を大きく削ぐことになるだろう。それというのは、言語はそれ自体が言語使用の伝達において成立しているからであり、言語による規定 Bestimmung もまた、言語とその伝達によって成立している限りにおいて、最終的に言語使用-伝達の複数的な主体としての社会的なものの契機を待たなければならない。それだからわれわれは、個別的な語りにあっても、コンテクストとテクストのはざまで、細心の注意をもって語ることになる。ただし伝達それ自体が目的なのではない。いみじくもシュライエルマッハーは教育の目的を、物語(ナラティブ)を伝えることではなく、伝達という位相を通して学習者自身がことがらに気づくこととして捉えている。それは永遠的なものの瞬間的な経験に他ならない。(われわれは多くのことを説き語ることができるが、これらの教育や教練がこのことがらへの気づきという形相因によって成立する限りにおいて——たといそれが大量の詰め込みであったとしても——、到達目標に近づいていると言えよう。)したがって次のように言わなければならない。本稿を含め、伝達されるものの教育的効果は、個別的な語りそれ自体ではない。そうではなく、伝達を通して伝達の間に一つのもう一つの個別的な語りを現出させることなのだ。

2021 05 07 いつも西暦を「2020年」と書き損じる癖が止まない。どうにもぼくの頭の中には、2021年という年がよそよそしく感じられるらしい。2021年は依然としてぼくにとって2020年の次の年であり、まだ2021年のための予備的な活動を行なっていることに終始しているからなのかもしれない。2021年はまだ始まっていないといった思い込み Meinung がぼくを2021年に迎えることを拒んでいる。最近は『ひだまりスケッチ』を4期通しで見ていること以外何もしていない、と言ってはおおげさかもしれないが、実質的にそう言わせてほしいくらいには何もしていない。いや、何かしてはいるのだが、それが何か成果として上げられるものに足ると言うことに恥じらいを抱いているのだ。
とりあえず東大出版から出ている『西洋哲学史』や講談社から文庫になって出版された『古代哲学史』を読んでいる。どれもすごく凝縮された参考書なわけだが、田中美知太郎による後者の本は質がまるで違う。自然哲学の観点から(イオニア/エレアという)二つの潮流を通して諸哲学説を語る精度は瞠目に値する。もちろん関心しているほどの学識的な余裕があるわけでもなく、とりあえず目を通すだけで満足しているのだが。それに加えて何より文献案内が重厚だ。近世について似たようなものは福谷(2019)のしめすところであるが、それと比べても研究史や本文批評にてらしたものが多く、学部生よりも広い幅の層に向けられて書かれたものであることが察せられる。
余裕がないと言ったが、実は時間的余裕もなく、ただ本を読んで満足してばかりいられる身分でもないらしい。過去問を見てきたが、まるでわからないので肝冷えする。「これを一時間あまりで解かないといけないのか」という焦りがくるのだったがまだマシだったが、設問がわからないとなると流石に笑い事ではない。時期的にも定期試験と時期的に近いのでますます頭が痛くなってくる。その上、卒論相当のテクストを用意してこいときた。まったく一体全体どうしたものか……。
最近は漫然とヘーゲルの『差異論文』を読んでいるか、『精神現象学』を読んでいるだけで、此れと言ってドイツ語の勉強をやっているという実感のあることをしていない。おそらくこれが深刻な問題であり、つまり演習量がまったく不足しているわけだ。それに加えて英語も自信がない。なによりも文意を理解してしまえばある程度点数が降りてくる学部入試の問題と決定的に異なるのは、語学の試験がことごとく訳読一本勝負であることだ。多少の誤訳ひとつをとってもごまかしがきかない。大学入試でも訳読は出ていたが、どれだけ点数が残っていたことか……。ということでやることは四つ。
1/哲学史のアウトプット
1/a.アウトプットの方法はいくらかあるらしい。覚えている概念からそれについて把握していることがらを思い出せる限り書いていき、適宜朱入れする。特に古代がかなりいい加減なので心配だ。
1/b.現代哲学についても多少話せるようにした方が良さそうだが、問題数的にも哲学史に注力して確実に得点できるように訓練すべきだろう。ドイツ系が出たら落とさないくらいの準備はしたい。
2/論述。これが一番怖い。懐疑主義を論ぜよ、みたいな問題が出てくる。前提事項を整理して一応の論を結ぶ訓練が必要だ。それも一定時間内に。
3/語学の演習(最低限の構文力とボキャブラリを身に着ける)。
3/a.とりあえず文法書全部やって問題点を全てあぶりだす。
3/b.二次文献を読む。とりあえず今関心のある概念を整理した文献に触れる機会があるので、それをうまく使う。
3/c.出てくる文献が必ずしもヘーゲルというわけではないし、ましてやいわゆる「一次文献」が出てくるわけではない。邦訳に信頼のあるものを横に置いていくつか文章を読んでみることから始めた方が良さそうだ。とりあえず『認識問題』の精読を再開する。
4/英語は語彙力と構文力が問題。院単とロイヤル英文法に書いてあることくらいはさらっておく……。

補遺
5/忘れていた。出願のために提出論文として一万字こしらえないといけない。とりあえず初期ヘーゲルの何かで書こうということまではできているが将来的な研究方針と合わせて考えないといけないのがいちばんの困難だろうと思う。
5/a.ヘーゲルにどういうトピックがあるのか、おおよそ見積もりを立てる。
5/b.ヘーゲル語に慣れる。今の所『差異論文』を暇なときに読んでいるが、それだけでなく Suhrkamp 版の第二巻から適当なものを見繕って読んでいく。特に『信と知』が気になる。

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