アレンジメント

中高時代、たまにハードダーツをやることがあった。パブとかにあるダーツよりもすこしオーセンティックな装いのアレである。そこでは必ずアレンジの話になる。同じ501点までたどり着くにも、複数のアプローチが生じる。必ずトリプル20に入るわけではない。もちろんトリプル20を狙うのは定石なのだけど、いろいろな狂いでとっさの判断が求められる。アレンジ表には2から140まで何十にも及ぶレシピが書かれているが、これは古文の活用表のようなもので、繰り返すうちに覚える。アレンジとは予告された即興のようなものであり、場当たり的にはうまくいかない。ジャズも同じかもしれない。この進行にあってこの変奏、というパタンがある程度決まっている。そのある程度決まっているというところに、人類の知見が揃っていないだけだ。いやむしろ、いかなる知的生命体にあっても、この決まっているという事実性に気づくことができないのかもしれない。決まっていると言えるのは、ある知性によって作られたカテゴリ表を漏れなく無駄無く埋めたからに過ぎない。一旦カテゴリ表が忘れ去られたら、また別のアレンジが成立する。忘れ去るとは一種の恣意である。この恣意が別のアレンジを触発する。

こうしたカント的な図式が正しいのかはともかく、少なくともアレンジはアプローチとカテゴリの複合であると言うことはそう難しいことではないはずだし、arrangementという英語における字面通りのことだ。場当たり的であることと無前提的であることは異なる、と——かなり挑発的な文脈においてではあるが——とあるメーリングリストでも言ったことがある。「前提がない」ことと「前提がないと思う」ことの間には大きな違いがある。後者の場合には前者になかった焼け野原が目の前にあり、それを受け入れないといけないという覚悟が微妙な印象で浮き出てくる。雨後の筍のように生えた高層ビルも、その内側の管から破壊されればただの構造物となる。その時我々の生命は大きく覆される。やり直さないといけない。予想していたことがことごとく潰されてしまう。しかし、その空洞化した幹の中に我々は住まわざるを得ない。そこに新しい管を注入するという作業がアレンジである、と言って差し支えはないだろう。
語源的な意味でいえば、arrangerは古フランス語で階層の建設を意味する。ところで、二種類の司会者がいる。1/あたかも調和がとれているように見せられる人、2/いたるところに分裂を見出し糾弾する人。後者より前者の方ができの良い感じに見えるが、むしろ後者にアレンジの能力がある、と言えるのはアレンジの持つこの志向性からだ。すでにある階層に自覚的であるかはさておき、それのパイプをどう繋げるかは司会者の恣意に関わる。それは大概日常的な世界観の破断であり、恣意の力を暴露する。恣意が世界を変えるのは、恣意が自らの力を持って認識のカテゴリを組み直すからだ。
前者の司会者が誰にでもできることではないにせよ危うさを残すのは、その立場が階層としてパージすることの党派性を覆い隠してしまうからだ。私たちが常々歴史的であることをやめないかぎり、この点は歴史研究にも重なる。現代に至った時もはや歴史が歴史戦であるのは、それが現在の社会的関係を決定づける作業となっているからだ。この建設というエレメントにあって歴史はただの阿呆の画廊にも階級に肉薄する理論にもなる。

内容と形式の二つで言えばアレンジは形式の組み直しである。しかし歴史的には内容への転化を意味することにも繋がる。逆に内容を形式に移行する無邪気については、前者の一面的なアレンジはこれへの抵抗にはならないだろう。アレンジとは一連の抵抗の儀式である。つまり、放縦のままに任せた時に生じる無邪気な形式への転化を反転する作業である。それを行わないアレンジに、いかなる誠実性があるかをわたしは判断できない。
内容の転化、という点で事務所を立てようと考えている。「空飛ぶ大学」のオマージュのように、そこで毎週特定の曜日特定の時限(18時半以降になるだろう)に特定の場所で毎回やることを告知する。これを一時的にでも少しでも抵抗に値するアレンジとして打ち立てたい。KUNILABOのようなスタンスで連続の一科目16000円の枠を作っていくことは荷が重い。ワンドリンク・オーダー500円(+カンパ)程度を維持費としてもらって運用していければと思う。学校と呼ばれる形式から知識を救済し、強度のある理論を惹起することができたら御の字である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?