2021-06-05

「芸術系のアニメを見ていたら制作をしたくなってきた。だけど餅は餅屋だね。自分の使える手駒を使うだけだ」
「きみの手駒などというものがあったとして、それがきみ自身に分かり切っているなどと思うのは、過信だと思うね。それというのも、もしそれを知っているなら、きみはいまのように迷走してなどいないだろうから」
「その通りだけど、多少は納得したくもなる。そうでもなければ、ぼくはおかしくなってしまうだろう。きみにだってあるんじゃないのか? 何もかもできてしまう可能世界があって、そこの自分に仕事を仮託したくなる気分というものが」
「あったとしてもだ、それはずっと理想のままで、仕事は現実にならない。きみは何ひとつ現実について語りやしないじゃないか。現実というのは、もっとわれわれが知っている以上の事柄なんだよ。自我が自我であると言ってしまった途端に、きみは自我を限定化する作用の中に自我を抱き込んでしまっているのだ」
「きみがそうまで言うならそうなのだろう」
「不服そうだね」
「不服だとも。ぼく自身がぼく以上あるいはそれ以下のものであると納得することほど、不愉快なことがらはないだろう。なぜって、ぼくはつねにプロフィールにおいて、履歴書において、ぼくがなんであるかを求められているのだから」
「それはその通りだ。だがおそらくは、それはきみの納得ではない。現にきみは可能的なきみに仕事を任せることを望んでいる。それはきみの自己実現欲求を先送りにすることに他ならない。しかしそれは思い出したかのように定期的に現れては、きみにツケを支払わせるものだ。たとえば履歴書で「ぼくがなんであるか」を規定する作業においてね。つまりは欲求のリボルビング払いだよ。しかし、可能的なきみに送り出した仕事の量は、ぜんたいどの程度になっているのか。言っておくが、現実のきみこそが、仕事を現実のものにするすべてなのだ」
「仕方のないことにね。しかしぼくには、ひっくりかえっても本当の生活が欠けているように思われてならないんだよ。ぼくは自分の本来的なあり方、人間としてのあり方から、ついぞ疎遠なままで終わっていくのではないか」
「やれやれ。そればかりはぼくにもわからないね」

2021 06 05 ようやく調子が戻ってきた、ような気がする。本当のところはそうでもないのだが(というのは、睡眠のリズムが乱れきっているからだ)やはり成功体験、とはいえないにせよ、少なくとも何かしらやりきっているという体験があることに勝るものはない。昨日から講義を除けばずっと数学の問題を解き続けていた。と言っても、測度論や位相空間の初歩的な計算であるから、とにかく手を動かすことが仕事のすべてなわけだが。しかし、見よう見まねながら手計算を行うことで証明ができていくのは、ちょっとした快感をおぼえる。今まで真面目に数学を勉強してこなかった(より正確にいえば、数学の講義に参加してこなかった)ことについて、現在ほど悔いることはないだろうと思う。
冒頭、ちょっとばかりの対話篇のような文章を書いてみた。切り出しは実体験における会話にほとんど近いもので、その後も見聞きした話を切りはりして作ったものだ。小説は地の文を書くことが一番難しい。というのは、普段書いているものの多くはすべてが地の文であるか、あるいは語りであるからだ。第三者の自覚的な目線に立って反省するという契機が、端的に言って欠けている。背景や人物の挙措を描くことは単に直接的に描くだけではいけない、そうではなく、背景と人物との相関があってはじめて描写が成立するのだろう。少なくとも狭い読書歴を踏まえた管見では、そうであるかに思われる。こればかりは場数を増やしてどうにか獲得できるスキルではない気がしてならない。なぜならば端的に文章を書くことないし思ったことをそのままに書く作業とは違ったパースペクティブを導入する必要があるからだ。そうした視座の転換は一種のコペルニクス的転回を伴うものに他ならない。すでに書けている人には、そう意識される事柄ではないのかもしれないのだが。この跳躍が成し遂げられた時に、文章ははじめて小説としての形を持つのかもしれない。もちろん、私小説の形態もあるのかもしれないが、それもまた直接的な描写の復活である限りにおいて私小説も依然として小説である。
なぜこんなことを書いてしまったのだろうかと一瞬疑問に思ったが、すぐに思い出したことがひとつある。対話篇を書いている中でもテーマに上がっていることだが、「可能的な自我に仮託していた仕事を現実化すること」である。ぼくには可能世界への偏愛というか、あるいは他なる生活への渇望がある。これは単に、他人と話すことがあまりないから、他なる生活(つまり自分以外の遍歴を送ってきたケースに該当するひとの生活)を聞く機会がないから、それに触れてみたいという欲望に基づくものなのかもしれない。あるいは翻って、可能世界を殺したくない、少なくとも殺すことを回避する行動を取り続けたいという願望がある。例えば相対評価の伴う試験だ。もともと定員割れ上等の大学院試験ならともかく、定員数がごく限られているうえに多数の応募がやってくる類の試験(その例には枚挙にいとまがない)について、ぼくが受かれば誰かが落ちるという観念が浮かんでくる。ぼく以外の優秀な誰かがこっちにやってくることだってできただろうに。いや、そうでなくとも何もしないという消極的な選択にぼく自身を投げ入れているその時点で、ぼくは可能的な自我を殺しているのではないだろうか。しかし、こうした判断も少しばかりアンフェアだ。可能的な自我を殺すことはできない。消去することで殺せるのはひとり他者だけだ。あえて何事からも距離を置くことによってなんでもできる可能的な自分を保全しているかのように見えて、その実ぼくはその可能的な自分をより一層貧困にしているのだ。自然主義的な見立てでいうなら、次のように説明できるだろう。ぼくは現実的なぼく自身から絶えず疎遠になり続けることによって、ぼくは世界とのかかわりを貧困なものにしている。ところで、可能的なぼくは「四角い三角」がそうであるように複数の直接的な対象から構成される観念連合に他ならない。したがって世界とのかかわりの貧困になるにしたがって、観念連合も貧困になっていく。「現実に向き合え」などというということは非常に簡単だ。そのうえ誰にでも突き刺さる言葉である。だがそれは、——あくまで限定的な立場であるが——もしかしたらできることへの想像力をメンテナンスするための必要条件として、捉えるべきことがらなのかもしれない。
ぼくは小説を書きたいし、漫画も描きたい、音楽もやりたい、と正直思っている。これは全くの話、人生の半分以上の時間をかけて思ってきただけの事柄であり、ついぞ現実の仕事に結実することのできなかったものばかりだ。だが言っておかねばならないことだが、それはやってみて諦めきった方がずっと容易いのではなかろうか。つまり、誰かしらの相対評価(あるいは「執筆、語学、楽器、等々……は遺伝による」などと言った通説)を伴うこともなく、端的に「向いてない」と気づく契機がそれぞれに含まれているはずだ。それに気づいて「やめ」と言わない限りは、多少の手をつけるべきだったのではないか。ぼくの人生は、どうも人任せに進められるものではないらしい。それに気づくには、もう遅すぎる気がする。自己疎外し、体力をやしない、仕事を現実のものにする。時間はまだある。半年、一年。あるいはそれ以上か。(実家などと相談し)無理やり引き伸ばしているだけだ。だが限界は見ておきたい。それがなんであるかはともかくとして。

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