始めること、あるいはとてもありえぬこと

nur-Möglich、ということばがヘーゲルの大論理学でたびたびでてくる。可能的なものはいまだ現実的ではないのだが、不可能であるわけではない。やがて起こりうることが約束されているわけではないが、起こりえないことを確約されているわけではない。したがって、とてもありえぬことと解釈されうる。とか海老澤善一が彼の著作で書いていたことを記憶している。

わたしがGrenzstehenという造語で書こうとしたことはいつまでも自分自身に向けた創作論の域を超え出るものではなかったが、それはむしろ創作することにおいて起こっている運動について描写しようとしたものだったのかもしれない。創作とは単に記述することではない。記述することにおいては決まった手続きがあるが、創作はそうではない。だからと言って放縦に書けば良いというものでもない。そうではなく、創作とは、その手続きに極限まで自覚的になりその限界を発見する行為であるとともに、そしてその結果手続きの範疇を再規定し還帰する運動に他ならない。創作ほど手続きに対して繊細なものはない。「二倍約物」の規則ひとつをとっても、その校正の是非について私たち著述者が神経質に過敏になるのはそれゆえである。著述者が編集者になることはあっても、それはいまだ著述者ではない。著述者が著述者として概念把握されるとき、そのひとは時間を超越し自らの中に言語すなわち神の創造物を発見するだろう。

私たちには、何かを始めることが何かに所属することを前提しているかに見える。大学に入学する、サークルに所属する、会社に入る、サロンに入会する、等々。なんらかの団体・組織(集団)に入り、その中で切磋琢磨することで成長するにつれ、私たちは始めるべきことがらを習得することができる——私たちはこのナラティブに絶えず魅了されている。ところが私たちは、次のように断定的かつ偽悪的に言うべきである。何か始めることが何かに所属することを意味すると錯覚した時点で我々の想像力は貧困になる、と。これはあくまでも政治的な発言であり、論理的必然を持っているものではない。つまり理論理性における諸範疇で判断されうる命題ではなく、規定性を乗り越えて精神の運動の中で反省されることがらである。
集団には大きく分けて二つの極がある。ひとつは官僚制であり、いまひとつは同質性(ホモソーシャル)である。前者が介入の過剰、後者が介入の不足によるものと捉えられがちであるが、逆の場合でも同じである。すなわち、両極は集団の生成変化における同じ抽象的ないし複合的な事物にとどまる。少なくともそれらは極であるとともにいまだに現実的ではないから、一方の極の要素を他方の極に適用することによって「中和」されることはない。なぜならば、両極のいずれも歴史的反省を伴う集団の生成変化の契機ではないからだ。歴史的反省(あるいはこの集団はまずもってなんであったかという総括)の欠けた、ないしそれがいまだに抽象的な能書きにとどまっている集団は、いかなる補足、いかなる補完をしようと試みたところで、現実性を獲得することはできない。私たちが本質的に集団になる時、それは総括、すなわち歴史的な反省作用を前提する。現象的に集団になったからといって、直ちに私たちが現実的なものになることはありえない。抽象的な集団で始まるのは官僚制や同質性なのであって、私たち諸個人が欲望することがらそのものではない。
他方で、ことがらを(とりわけラディカルに)始める時、私たちは始まるそれ以前、始まるという運動がはじめて可能的になる契機にまで遡る必要がある。これは文字通りに捉える必要がある。アリストテレスは学問の始まりを驚異と規定したが、私たちは「始まるとはいかなることを意味するか」を確認する必要がある。例えば行為遂行的な言語によって規定することができるかもしれないが、それ以外の方向を考える必要があるだろう。しかし、始まりの始まりを捉えようとすると直ちに同語反復に陥る。それゆえに始まりはつねにすでにとてもありえぬものとして現に存在する。すなわち、私たちは、つねにすでに、始めていたのであり、それを恣意的に始めることはできないのである。驚異はあくまでも始まりがあったらしいことを確認するものでしかなく、驚異こそがことがらを始めるわけではない。私たちの始まりはつねに歴史的反省を経て獲得される存在の中に発見されるのであり、意識は後の祭りになってはじめてそれを認めるのである。まさしく集団の「開始」とは政治的判断に他ならない。
したがって、集団に入ることはことがらを始めることを可能的にするための数ある手続きのうちの一つに過ぎない。ことがらの周辺にある事物を経験しそれをひとつの事物として一定のカテゴリのもとで承認する、手続き。始まりとはひとつの言語習得のようなものであり、いかなる秘密も存在しない。あるのはただ、言語の秘密なのであり、そこにいかなる個人的天才も存在しない。私たちが始めることができないのは、有数の被造物たる言語の神秘にほだされ続けるからであり、マクロコスモスをマクロコスモスとして捉えようとする混乱による。私たちは始める前に、次の二つのことを諦めなければならない。まず、私たちの始めるべきことがらが万能であると錯覚することを。次に、しかし、その万能性の錯覚の解体によって、私たちの無能を慰めることを。

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