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短い人生とか言うのはごめんだ

人生なんてひどく退屈なものだと思うよっていうと、お前が退屈だからだよってあんたはいうだろうけど。知ったことではない。とにかく退屈なのだからそうとしか言いようがないのよ。もちろん、あんたが当てこすりしているわたしの像を通してわたしの妄言をデタラメに解釈しないでくれ……とは言わない。ただ少なくとも、あなたはすごい無駄なことに労力を割いているよね、とは思ってしまうだろうね。なぜというに、そんなことを言ったところで、わたしには自分自身の退屈さと自分の人生の退屈さに必然的連接を見出すことはできないのだから。そこには根本的な断絶があって、数段階経ない限り克服しようのないことがらだ。

明らかに、というわけじゃないか。ただ確認しないといけないのは、一つとか多いとかの量を見つける場合、私たちはある種の確信を持ってそう認定する。A1、A2はAを共有するから一である、しかし1、2という差異を持つから……、云々。しかしA1=A2であってA1≠A2ではないのは(あるいはその逆であるのは)、一つのカテゴリの中においてだった。悟性と力。数段階のスキップがあるが、ここから話を始めて良いだろう。私たちは歴史の歩みの中で絶えず意識と自己意識との間の作用の中に立っているが、その前提となるのが悟性の運動だった。
少なくともはっきりしているのは、(アリストテレスが言うような)学問が驚異(θαυμάζω)を通して始まるという認定は、必ずしも当てはまらないということ。人間は自然本性的に知ることを渇望する、とはアリストテレスその人の言だが、加えて彼は自分までの哲学史を総括して次のように言っている。

けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるがあの最初の場合にもあのように、知恵を愛求し(哲学し)始めたのである(διὰ γὰρ τὸ θαυμάζειν οἱ ἄνθρωποι καὶ νῦν καὶ τὸ πρῶτον ἤρξαντο φιλοσοφεῖν)。ただしその始めには、ごく身近の不思議な事柄に驚異の念を抱き、それからしだいに少しずつ進んで遥かに大きな事象についても疑念を抱くようになったのである。たとえば、月の受ける諸相だの太陽や星の諸態だのについて、あるいはまた全宇宙の生成について。(『形而上学』、982b、出隆訳)

ここで、哲学を始めること、なかんずく驚異することを通してそうすることは、(アオリストによって)一回的なものとして描写される。驚異は哲学を始めるにあたってのほんの一撃にすぎない。少なくとも、不断にそうであったとは言えないようだ。特にκαὶ νῦν καὶ τὸ πρῶτονと言っているところも注目に値する。未だ嘗て哲学は存在しなかったと言っていたドイツ観念論哲学者に列せられるあの面々とは打って変わる。驚きを通して哲学は始まるが、哲学をする最中それは忘却される。いみじくもアリストテレスはここで哲学の始まりを再演している。この再演をもって、哲学史が私たち前に開闢する。しかし、彼の時点で哲学史は哲学の営為と微妙な距離感を保っている。あくまでもこれは哲学の再演に過ぎない。今まで忘却されてきた哲学の黎明を想起し直しただけのことでしかないのではないか。驚異をもって哲学が始まったのだとするなら、驚異以前の思考はどこから始まったものなのだろうか。そうではなく、純粋思考はそれ自体によって立ち、それ自体から始まる。つまり、純粋思考それ自体の意思によって。それはいかなる外来的な動因によらずにひとりでに行われるイベントだった。それを思考と呼び地位を与えるという自己内反省の運動を哲学と呼ぶべきなのではないだろうか。
先ほどの話に戻そう。A1,A2をめぐる判断はなんらかのカテゴリによって下支えされていると言った。そのカテゴリがどこから出てきていかに正当化されうるのかという歴史的な叙述はともかく、どう現れるのかというと、自然本性的な出現ではない。そうではなく、思考自体による一つの発明である。A1,A2のもつ同一性と差異は、なんらかの実在A1,A2が個体的に存在するのではなく、Fx.Axからx=1,2の場合が生成されていると見なされうる。ここにAという関数や1,2という自然数による相関から生成されるA1,A2が現れる。さて、この数自体が持つ役割にも注目すべきだろう……、という具合に私たちは思考それ自体の反省を行うことができる。ところが、ここのA1,A2がなぜ生起されたのかというところについて、私たちは未だ決着を見ていない。この根拠をたどる必要がある。哲学史はこの内発的な運動として要請されうる。

生命の運動は短いか長いかという評価の以前に、生命の運動そのものを私たちはいまだに追いきれていない。しかしはっきりしているのは、その終焉を迎える時、わたしはわたし自身の姿をもってはいないだろうということだ。わたし以外の何かがわたしを取り込む、わたしの方から見れば元の木阿弥に還帰する……かはともかくとして、わたしは収斂点を眼差すことはついぞできないだろう。あらかじめ予知して打算的に行動することをよしとするならそうした方が良いのかもしれないが、正直のところ、そこまで世界が狭隘なるものとも——少なくともわたしの意見としてだが——考えにくい。その限りであえていうなら、最初に述べたとおりだ。私たちは生まれたばかりである。たしがわたしである限りは終わりを迎えることができない、終わりを迎える時それはわたしではないだろう、その限りにおいてわたしはそれ自体に即すなら永遠的な存在である。それは終わりを推し量ることのできない無邪気さを意味するものではない。むしろ深い絶望である。天球を望むことのできない円環の大地に立たされており、ついぞ自らの重力から解放されることのなく、そしてそのことを自覚できない、という絶望だ。重力の中でわたしは死んでいく。しかし重力の外に出ることはできない。重力とともに歩んでいく。しかし重力のなんたるかについて、わたしは(少なくとも自分には)数えきれないほどの言明を重ねていくだろう。そしてわたしは、とにかくこの重力を愛してやまないだろうし、重力のもとに生まれたことを、奇蹟と呼んで憚ることはないだろう。

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