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イギリスの歴史(15)ついに「イギリス」誕生✨

こんにちは!自由主義研究所の藤丸です。

今回は「イギリスの歴史シリーズ」の15回目です。

前回の記事はこちらです。

前回までのおさらい

【ピューリタン革命】
課税権や国王大権をめぐり王と議会が対立。
王チャールズ1世は処刑され、王政・二院政を廃止し、共和制へ。    
     ↓
【クロムウェルの軍事独裁】
スコットランド・アイルランドを統合           
     ↓
【王政復古】
王権は復活したが、封建的諸税や議会の同意のない課税はいっさい許されなくなった。
革命初期の長期議会の諸改革もほぼ継承された。
議会はカトリックを警戒し、「審査法」を制定し、要職につくものを国教徒に限定した。
     ↓
【名誉革命】
ジェームズ2世が国王大権を強化し、公然とカトリック化を進めたことが発端。
王の長女メアリと夫であるオランダ総督ウィレムによる共同統治。
議会は「権利章典」を制定し、議会主権を保証する立憲君主制が樹立された。君主が唯一の法の創造者だとするこれまでの考え方を改め、歴代の諸王が継承してきた「祖法」が王だけの法ではなく、議会と王の法になった。

1,イングランドの外交官ウィリアム・テンプル

ここで、イングランドの外交官ウィリアム・テンプルについて紹介します😊

17世紀末~18世紀初頭にかけて、大陸ではルイ14世治下のフランスが急速に勢力を拡大していました。

ルイ14世は、主権国家がお互いに平等な存在として併存すべき近代国際社会の基本秩序を確認したウェストファリア条約以来の「ヨーロッパ新秩序」に挑戦🔥します。

このフランスへの対抗の必要を説き、英蘭接近と名誉革命の道を開いた一人として、イングランドの外交官ウィリアム・テンプルという人がいます。

外交官ウィリアム・テンプル


1660年代、駐オランダ公使としてハーグに赴いたテンプルは、
オランダの「自由」に驚きました。

言論の自由のなかったイングランドと比べ、
オランダの人々が政治・外交について公然と政府を批判する姿に感銘を受けたのです。

テンプルは外交官のキャリアを通じ、価値観を共有すべきオランダと連携し、フランスの脅威にあたるという選択を、多くの抵抗に直面しつつも一貫して説き続けました。

名誉革命で英蘭が接近し、ウィリアム3世は、神聖ローマ皇帝やドイツ諸国・オランダとともに、フランスを封じ込めるように、9年戦争やスペイン継承戦争などに参戦。
ルイ14世の野望を挫きました。

フランスへの対抗を訴えたテンプルは「ルイ14世を倒した男」と言われるそうです✨

詳しくは、以下の本を御覧ください😊


2,グレート・ブリテン連合王国(イギリス、英国)」の誕生

このときの対フランス戦での莫大な戦費は、
1694年にロンドンに設立された中央銀行「イングランド銀行」と、
同行が緊急時に請け負う「国債」という新たなシステムによって賄われました。

世継ぎのいなかったウィリアム3世の死後、妻メアリ2世の妹アンが女王として即位します。

その後の王位継承を順調に進めるためにも、アン女王は、イングランドとスコットランドの「合邦(ユニオン)」を実現します。

ついに、「グレート・ブリテン連合王国(イギリス、英国)」の誕生✨です。

アン女王

アン女王は、ブランデー好きであったことから、ブランデー・ナン(英: Brandy Nan)の異名で知られているそうです😁

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最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回「ウォルポールの平和~増税なければ戦争なし」に続きます😆

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