【動十分心】喋りにおいて心を十分に動かすってどういうことか全身全霊で考えた
Change Talk,Change Life.
"喋りを変えれば生き方も変わる!"
「蝶想喋楽(ちょうそうちょうらく)」
「喋りは生き方が9割」
「Free Talk Entertainment
~自分という楽器で言葉を奏でよう!」
22世紀に「広辞苑」から"人見知り"をなくしたい
誰もが自分を解放し喋りを楽しむ社会を実現
喋りに対する意識を変えて人生を好転させる
一般社団法人日本フリートーク協会代表理事
フリートークアドバイザーの“TURKEY”です
こんにちは!
僕のブログに来ていただき
本当にありがとうございます!
動十分心、動七分身
世阿弥「花鏡」のシェアシリーズ
まだまだ続きますよぉ(笑)
いやぁ
深い
深いというか
僕が深めてる
いや、深みに入ってる
極めていい意味でね
「深く突き詰めて考える」
というのはですね
世阿弥が書いているのは能の世界
技に関する事や心のあり方など
僕の喋りに関することなどは
当然ながら一切言及していません
それを僕が
「これを喋りで言うと
どういう事なんだろうか…」
いちいち考えて咀嚼しながら読んでる
そうです「いちいち」です
これが僕の読書法なんですよ
まして今読んでる『世阿弥芸術論集』
現代語訳ではなく原文で読んでますから
正直意味が分からないこともあります
でもそれをすっ飛ばすのではなくて
前後の「雰囲気」で予測をしています
「だいたいこんな意味なのかな?」
例えばね
《動十分心、動七分身》
こういう言葉が出てきました
これはありがたくも註釈があり
「十分に心を動かし
七分に身体を動かせ」
こう添えてありました
ただね…
これだけでも分からんのです
分からんもんはやっぱり分からん
世阿弥が意図することは分からない
だからもうここからは独自解釈です
考えるのです
考えて考えて
「こうなんじゃないかな?」
自分の体験や思いなどを元にすると
だいたいの意味は理解できるのです
するとですね
『世阿弥の稽古哲学』(著者/西平直)
今はこの本も併読しているのですが
ここに「稽古」についての言及かあった
西平さんはこう表現されていたのです
「古を稽えること」
すみません…
恥ずかしながら初めて知りました
「稽古」の「稽」という漢字
「かんがえる」と読むんですね…
その時にハッとしたんですよ
「あ、今僕がやってること
これも稽古になっとんや!」
古の世阿弥の声に耳を傾け
「これを喋りで言うと」と
自分なりに稽えて読んでいる
まさに喋りの「稽古」じゃないか
つまりこれもひとつの
「十分に心を動かし
七分に身体を動かせ」
こういうことになりますよね?
身体や口を動かすことでなく
気持ちを存分に働かせること
そこで合点がいったんですよね
「なるほどこういうことか!」
いや何度も言いますが
これはあくまで僕の独自解釈ね
つまり喋りにおいて大切なことは
喋る時も喋らない時も常に
心をフル稼働させておくこと
口は休めても心は研ぎ澄ませておけと
どんな時でも
どこにいたとしても
喋りの鍛錬は出来るってこと
そこにマイクなどは必要ない
だからこそ「深い」のです
「深みに自らハマっていく」
古の思想にはそんな魅力というか
不思議な魔力のようなものが潜んでいる
まさしく
稽古の魅力を世阿弥が教えてくれた
そういうことですね
同時にまた少し違った解釈もしたんです
それをここで書くと長くなりますから
そうそうその「長さ」に纏わるエピソード
明日の朝のライブ配信でお伝えしますね
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