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生産性という言葉があまり好きではない

今日は、わたしが生産性という言葉があまり好きではないという話です。

働き方改革だったり、DX(デジタルトランスフォーメーション)だったり、あと最近だとリスキリングなんて言葉がメディアでよく見かけるようになっていますが、言葉は踊れど変化はあまりないように感じるのが日本社会って感じです。

そして、こうした働き方の変革が語られる時に登場するのが「生産性」という言葉です。仕事の効率を上げようとか、生産性を上げよう、とかよく耳にしますよね。

うっかりすると私自身も、生産性とかって言っちゃうんですが、最近ちょっと、この言葉があまり好きではなくて、どうしてこの言葉がしっくりこない、のかなってことを考えてみました。

生産性は21世紀でも必要か

まず、生産性は上がると良いものって考えられてますよね。それは、従来と同じリソースを費やして、これまでよりも一つでも多く生産できれば価値があるという考え方なんだと思います。

生産すると言っても、今は昔と違って、具体的なモノだけではなくて、無形のサービスだったりも含まれます。そして、このモノやサービスをどんどん効率よく生み出せる人が生産性が高い人で、仕事ができる人で、そういう人が社会に必要とされる…なんて言われちゃいます。

確かに昔は、モノを沢山作れる、サービスを多く提供できるということに価値があったと思います。モノやサービスが不足していた時代ですね。しかし、21世紀になってこの価値観がまだ有効なんだろうかと疑問に思うんです。

現代は昔に比べて随分と便利になりました、モノもサービスも増えて、どんどん豊かになっているはずです。例えば、自分の身の回りを眺めるとあらゆるモノで溢れていますし、サービスもYouTubeやサブスクで聴き放題の音楽や見放題の映画など無限に供給されています。

このモノやサービスの圧倒的な供給を前に、最近の若い人はタイパつまりタイムパフォーマンス重視といって倍速で動画を視聴したり、ダイジェスト的なまとめ動画見たりしていると言います。

それなるくらい世の中にモノやサービスが溢れかえって、私たち消費する側の時間がひっ迫しているんですね。

もちろんですね、視点をもっと大きく持って、世界のいろんな場所のことを想像すると、食料が不足しているとか、エネルギーが不足しているとか、教育を受ける機会が不足しているとか、そういう場所はあると思うんですね。なんですけど、それもテクノロジーの進化みたいな話で、10年前、20年前に比べるとそういった物やサービスにアクセスできないっていう人は減ってきているとも言われています。

※こういう話はFACTFULNESSという書籍が指摘しているようにデータに思い込みでなくデータにあたるのが重要ですね。

参考:
世界銀行(教育に関するデータ)
Education | Data (worldbank.org)

国連食糧農業機関(地域別カロリー供給量)
Food Supply - Our World in Data

一方で、もともとモノやサービスにたくさんアクセスできていたラッキーだった国の人たち、例えば日本もそうだと思うんですけども、そういった国では、むしろ消費する側の時間が足りなくなってきていると言えます。

モノやサービスの供給は無限に増えてきている中で、需要側がいっぱいいっぱいになっているという現状の中で、自分が仕事をする、働くという立場になると、自分が供給側に回るわけですよね。そして、供給側に回った場合の景色は、あいかわらず、いかに一つでも多くのモノやサービスを生み出すかがあいかわらず評価基準になっています。

その象徴的な言葉として「生産性」という言い回しが今なお残っているんじゃないかなと思ったりするんですよね。

部品のように働くを終わりにしたい

結局わたしが、生産性という言葉があまり好きではなくなったっていうのは、もっとたくさんモノやサービスを作ろうみたいなインセンティブを働く私たちに与えるのではなく、一つ一つの仕事の「質」や「意味」にフォーカスした働き方や価値の生み出し方にシフトしていってもいいんじゃないのかという思いからです。

そもそも企業が、従業員だったり、働く人のことを生産性で計るっていうこと自体が無理が出てきたのかなと。生産性って結局、時間あたりのパフォーマンスみたいな意味で、この時間あたりの生産性の追求ってタイパ追求の逆バージョンというか、非常にタイパの悪い働き方をさせる評価基準だと思います。

というのも、日本の一般的な働き方は、企業側から見ると、従業員に何時間働いてねって約束をしていて、その代わりはこの時間働いたらこれだけの報酬を上げるよ、それを超過した場合は法律に則って残業代を払いますよという約束なわけです。その約束の上で、残業はしないでね、とか残業してでもやってねみたいないろんなパターンはあると思います。ですが、とにかく時間で私たち働く側と雇う側が契約をしているので、時間あたりのアウトプット量で人の評価をされがちですよね。

こうした時間で縛られた働き方っていうのが、生産性という言葉の源なのではと思います。つまり、人間が何か大きな仕組みの一部で役割を与えられて、その役割を時間の中でしっかりこなすことで評価され、さらには、他の人よりも高いパフォーマンスでこなすことで、企業や社会全体の利益が増えていた時代の名残なのではないかなと思います。

人間が機械の部品のように、工場の機械のように働くという時代が急速に変わってきている中で、今なお人間を部品のように働かせる会社は、モノやサービスが溢れている世の中で、なかなか必要とされるモノやサービスを生み出すことができなくなってきているのではと思います。

働く一個人としても、与えられた作業を効率良くこなすだけでは、意味がなくなってきていて、その先にある企業活動がそもそも社会に役に立っていなければ、どんなに作業を効率良くこなしても、いつまでたっても評価されないなんてことになるのではないでしょうか。

こうした時代の変化についてこれていない雰囲気が、「生産性」という言葉に象徴されているような気がしていて、そろそろこの言葉を使うのは、個人的にはやめたいなと思っています。

ポッドキャスト

このnoteは、日々思い浮かぶアレコレを整理するためにはじめたポッドキャストを書き起こして再構成したものです。

まったく誰得?な内容のポッドキャストですが、よければ寝る前にでも聴いてみてください。