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共産主義とネパール

こんにちは。ネパールで農業関係の仕事をしています。

第二次世界大戦後、資本主義陣営と共産主義陣営の間で冷戦があったことはよく知られていますが、ネパールのようなマイナーな国でも共産主義革命が起こっていたことを知る人は少ないのではないでしょうか。
共産圏ではないネパールですが、現在でも共産主義系の政党には一定の力があります。
今回はネパールに興味を持った人がネパールの歴史を手軽に知ることができるように、マオイストによる内戦(人民戦争)を中心にネパールの近現代をまとめました。

年表

マオイストとは

基本概要

マオイストとは共産主義、とくに当時、毛沢東が率いた中国共産党の思想に影響を受けて誕生したネパールの政党です。
マオイストがネパールで起こした1996年から2006年まで続く内戦による死者は約1万3000人、避難民は数十万人と言われています。
それでも内戦後の選挙ではマオイストが第一党となり、以降もネパールの政治において一定の影響力を発揮しており、2024年1月現在の首相であるプラチャンダはマオイストの初代書記長であり、マオイストが初めての選挙で第一党を獲得した際にも首相となった人物です。

マオイスト結党

ネパールが現在の領土の形となったのはイギリス東インド会社との戦争で降伏した19世紀と言われ、当時はシャハ王家が統治する王国でした。
その王家が1960年代より独裁体制を強めたことで、国の開発は一定程度進みますが、当時から海外への出稼ぎが多く、外国からの援助は欠かせない状態となっていたようです。
地域格差の拡大などにより独裁に対する不満が徐々に高まるなか、1949年にインド*のコルカタで結党されたマオイストの前身となるネパール共産党は、ネパール国内で政党が非合法となっている中、1970年代より中国の文化大革命などに影響を受けてネパール国内で奇襲事件を起こしますが、当時は散発的に終わってしまっていました。
それでもマオイストは地下で活動する中でペルーなど各国の共産主義組織と情報を交換し、革命の計画を企てていきます。

そして1990年にインドの経済封鎖をきっかけにネパール国民の不満は頂点に達し民主化運動が起こります。
国王の権力は縮小し政党政治が復活しますが、国は不安定な状態が続き、それがマオイストの付け入る隙を生みました。

*当時はインドで教育を受けたネパール人の若者が反ネパール政府化することがよくあったそうです。

内戦と王政の終焉

農村部での活動

1996年よりマオイストによる内戦が始まります。
マオイストはインドから半植民地のような状態になっていることや、民主化後も封建制度が残っていることに対して不満を露出し、人民主導のネパールを築き上げようとしました。

青印が初期のメイン活動地域

初期は農村部で政治政党のネパール会議派やUMLなどの地方政治の役職者や富裕層を敵と見なし、殺害・追放することで土地や財産を接収。接収した土地はカマイヤと呼ばれる債務労働者や、低カーストの人へ与えたりしました。
ネパールにはカーストによる階級差別が存在するため、こうした行動は被差別対象の人たちからは評価を得やすく、マオイストは徐々に勢力を拡大していきました。

地域差や複雑さ

ただマオイストが全国へ活動を広げるにあたり、地域ごとの行動の差というのはよく見られたようで、暴力的にマオイストへの入隊を強要する地域もあれば、そこまでの強制はなかった地域もあるようです。
また地域によっては盲目的に高カーストの人間を襲う行為も増えたようで、この辺りが避難民の増加を招き、不必要に反マオイストを増やしたとも言われています。(マオイスト幹部については外国で教育を受けるほどの高カースト人材が多くいたそうです)

また、ネパールで虐げられている人と言っても一様ではなく、被差別カーストの権利の主張を訴える活動家であってもマオイストのやり方を必ずしも全てを評価しているわけではないという人もいたようです。(例えば政府から土地所収証明書をもらうための活動を行なっているが、マオイストはそのような手伝いはしてくれない等)

王族殺害事件と方針転換

2001年、マオイストはがロシア革命型と言われる都市部からの民衆運動も加えた戦略に切り替えることを決めると、王宮で国王を含む多数の王族が王族により殺されるという現在でも未解決のネパール最大の事件を契機に、国王や国軍を攻撃対象に変更します。

その2ヶ月後に新国王が停戦を発表し和平交渉が行われるが決裂し、マオイストはここからより一層の攻勢に出ます。
国王側は非常事態宣言を出し、首相を解任。内閣を側近で固めることで封建制度への回帰を図りますが、これも国民の反対感情の火に油を注ぐこととなります。

国王への不満が最大限に溜まり、マオイストが勢力を拡大する中、マオイストは主要7政党との協力を決定します。*

そして2006年4月に全国的なゼネストが行われた後に国王は主権の返還や国会の復活を宣言し、240年近く続いたとされる専制政治が終わりました。

*マオイストは過去の各国での共産主義の失敗原因は一党独裁にあると考え、あくまで複数政党制を計画していました。

マオイストの勝利と政権崩壊

国王宣言の翌月よりマオイストは再び和平交渉のテーブルにつきます。
マオイストの最大の関心事は制憲議会選挙(新憲法を作るための選挙)の開催であり、封建制度をやや引きずるネパール会議派と意見がぶつかることもありましたが、譲歩を行い2008年4月に制憲議会選挙が開かれることが決定しました。

そして実現可能性は別としても、他党より具体的なマニフェストを掲げたマオイストは当人も予想外の得票率(有効票の約30%)で約40%の議席を獲得し第一党となります。

しかし、国王宣言の直後から政権政党となっていたネパール会議派がこれをよく思わず、首相か大統領のどちらかを譲るよう迫ったことで、大統領はネパール会議派の人物、首相はマオイストのトップであるプラチャンダとなり、王政の廃止が決定されます。

しかし、度重なるマオイスト上層部の他党への譲歩や党幹部の贅沢な生活に批判が集まり党内が分裂しプラチャンダへの支持も下火となってしまいます。
党外でもプラチャンダによるマオイスト軍の国軍編入に拒否した国軍参謀長の解任命令に反発した他党の連立政権離脱が起き、その結果プラチャンダはわずか8ヶ月で首相を辞任してしまいます。

マオイストの政策

1996年から内戦を開始し、その10年後には第一党となったマオイストの政策は以下に集約できます。

  • 国王のいない共和制
    人民の解放には共和制が必要だとし、なおかつこれまで専制政治を繰り広げた王族の不在を求めました。

  • 複数政党が競争する社会主義的民主制
    これまでの共産主義国の失敗の原因を一党独裁だと考え、あくまで複数政党による社会主義体制を唱えました。

  • 連邦制
    連邦制による共和制が必要と考え、中でも国家よりも各州が優位な形態を取ろうとしました。
    各州は人種やカーストではなく民族で分けるとする方法を提唱し、この方法はスターリンの引き写しだと言われています。
    しかし民族よりも階級を優先することが共産主義の思想としてあることは他国と変わらないようです。*

  • 新移行期経済
    全体としては私有財産や私企業は認めながらも新自由主義的経済は拒否し、雇用重視の国内産業の振興を図り、外国援助も外国機関でなく人民主導で実施すると唱えていました。
    農業については土地の再分配を行い、農協を作ることで発展を促す方針でした。
    商工業は利用者や従業員が小規模投資を行うことで事業参画する共同事業化を提唱しました。
    その他「経済特区の制定」「映画・観光・輸出の促進」「40年間で再先進国となる」「10年で国民所得を10倍にする」という資本主義的なマニフェストも掲げていました。

*少数民族の自治などコストがかかる個別対応を行うよりも「低い階級」という大きな主語で人々をまとめることで個々の民族問題を無視する考え方。

政党政治への失望感

プラチャンダが首相を辞任して以降も新しい憲法はなかなか制定されず、2015年になってやっと新憲法が交付されました。

その後、プラチャンダは2016年に再び首相となりますが、翌年にはネパール会議派に政権を明け渡します。

2018年には共産主義勢力として政権運営を安定して行うために、同じく共産系のUMLと結託を行い、共産党を新たに作りますが、UML側の代表との間にトラブルがあり、3年ほどで解体。解体後のマオイストで再び議長となったプラチャンダは2022年末からは3度目の首相となっています。

このような安定しない政権運営に対して王政復古を望む人たちの声もよく聞きます。

しかし、王政復古から現代まで全ての政治の裏にはインドがいると言われており、マオイストの結党自体もインドで行われたことを考えると、あくまで中国寄りの思想を持つマオイストであってもインドの影響は無視できません。

最後に

ここまでネパールの近現代についてまとめてみました。
そもそもネパールという小国自体が地政学的にかなり難しい場所に位置し、国民の不満が政治に向かうことはしょうがないのですが、国を運営する難易度自体が非常に高いと思います。

王制の復活を望む声も、王国時代を肯定的に捉えているというよりは現在の政党政治への呆れから、抜本的な選択肢として王制を望んでいるという見方が強いようです。
仮に王制が復活したとしても、そのトップに座るのは王宮事件の黒幕とも噂され、急進的な封建化で王制の終焉の原因を自ら作った人物です。
そのようなほとんど国を統治したことのない人物がとてつもないリーダーシップを発揮して国を良い方向にまとめ上げることは難しいと思います。

希望を挙げるとすれば、海外経験などのある若年層による政治参加です。
実際に政党としても若手主体の政党に対する支持が広がっていたり、現在のカトマンズ市長は33歳ですが、私が知る限りでは誰に聞いても彼の評判はよいです。
これまでの伝統的な保守派政党や、権力を獲得したことであぐらをかいてしまった政党など内部の組織で国が変わらないのであれば、外からやってきた新世代が国を変えていくしかないのかもしれません。

そしてそうなった時には、これまでインドの影響が強かった部分についても中国の存在をうまく活かしバランス感覚をとっていくことが重要です。

今日は以上です。
最後までお読みいただきありがとうございました。


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