自己肯定感
(結論が出ていません)
寒い季節になった。
冬になると、冬季うつだなんだとメンタルの不調を訴える人間が続出する。
私もその一人だ。これから数か月、厳重警戒が必要である。
先日、友人とモチベーションが上がるきっかけについて話していた。
簡単に言えば、やる気スイッチである。
彼は、劣等感をバネにする―「自分が劣っていると感じたときにやる気が出る」タイプだと語った。
なるほど。
私のやる気スイッチは正反対、「自分が優れていると感じたときにやる気が出る」のだ。
それを言うと彼は、「そう思えるようになるまでが大変そうだな」と酒を呷った。
「相当努力しないと、そうは思えないよな」。その言葉に納得すると同時に、私は残酷さを感じた。
これは、ざっくり見ると「自己肯定感」とやる気の関係性の話である。
(自己評価と自己肯定感は似て非なるものだが、切り離せないものでもあるのでここでは一緒くたに考える)
自己肯定感の高さによって、モチベーションは変化する。
そこでまずは、自己肯定感を保つ要因について細かく見ていく。
私は、人間が自己肯定感を上げ下げ(?)する要因について、強く述べたいことがある。
それは、「自己肯定感は1人では上がらない」ということだ。
自己肯定感を下げる大きな理由に、周りの環境がある。
周りのレベルが高ければ高いほど、自分の劣った部分に目が行きやすい。反対に、周りのレベルが低いほど自分の優れた部分に目が行きやすい。
実際に私の弟は高校進学を機に自己肯定感が落ち、しばらく体調を崩している時期があった。
大学の教授も言っていた。
レベルの高い学校に行くと、自己肯定感が落ちる。安定した自己肯定感を育みたいなら、自分よりちょっとレベルの低い学校に入るのが一番である、と。
勿論自己肯定感を保てる奴もいるけど、そんな奴はほんの一部だと。
教授は某有名私立中学・高校を出ているので、説得力があった。教授の周りにも、ドロップアウトした人が大勢いたのだろう。
私の弟も、超名門というわけではないが、そこそこ偏差値が高くて部活動も盛んな高校に進学している。
自己肯定感を高く保つには、自分の努力だけでは限界がある。
上記の例もそうだし、各々経験があるだろう。
どんなに優秀でも、周りからの受容や評価がなければ自己肯定感を保てないのだ。
自己肯定感は、努力と受け入れてくれる環境の両方がないと保てない。
ここで再び、やる気スイッチと自己肯定感の関係性を考える。
劣等感をバネに頑張るタイプは、レベルの高い環境に向いている。
周りが優秀なら、当然劣等感を感じやすい。
彼らは劣等感を覚えたぶん努力することができ、向上していく。その努力が彼らの自己肯定感を支える基盤となる。
反対に優越感(?)を糧に頑張るタイプは、レベルの低い環境(超失礼)に向いている。
自分がその集団の中で優れていれば、当然優越感を感じやすい。
私たちは優越感を感じれば感じるほどノリノリになって努力する。努力すると多かれ少なかれ向上するので、さらにノリノリになる。
なんか頭悪そうな表現しちゃったな。
どちらにも当てはまらない人は大勢いるだろうが、とりあえずこの2タイプが存在しているのは事実である。
さて、ここでそれぞれが抱える問題を提起したい。
前者は、無理をしがちだ。
たとえ自分で望んだ道だとしても、人と環境によっては途中で糸が切れてしまうことがある。
「うつ病は頑張りすぎるとなる病気」という言葉があるが、それはこれを認識している人が大勢いることの証拠だ(この言葉の信ぴょう性?は不問とする)。
後者は、周りを見下す方向にシフトする恐れが非常に高い。
頼られるのが楽しい! とかなら全然いい。しかし、「愚かな周りに私が教えてあげないと」となった瞬間に、それは見下しとなる。
そして、そのふたつの違いを体感として分かっている人間はなかなかいない。
これは倫理的な問題だ。見下してしまえば当然相手に失礼だし、結果的に本人もぼっちまっしぐらということになりかねない。
そうすると、結局自己肯定感を下げることになってしまう。
私が後者なのでどうしてもそちら寄りの意見を強く述べてしまうが、これらの問題にどう対処していけばいいのだろうか。
正直、結論は出ていない。
だから私はこの記事を書いた。
私の周りには優秀な人がたくさんいて、特に大学に入ってからは周りが優秀すぎて「もう頑張りたくない」という気持ちを常に抱えて生きてきた。
だれか助けてほしい。
一度自己肯定感が下がると、自分が世界で一番劣っているかのように感じてしまう。
何より私は、周りを常に見下すような人間ではありたくない。
見下したくない見下したくない見下したくない!!!!!!!!
ここまで読ませて結論が出せなくてごめんなさい。
(画像お借りしました。ありがとうございました。)