今さらながら、バレンタインの思い出
2月14日(火)。
27歳の娘が8か月の子どもを連れて、エプロン持参で朝から我が家へやってきました。娘はだんなさまの実家で、彼のご両親と5人で暮らしています。いわゆる「義実家」というやつですね。
彼の両親は、特にお父さんが料理好きで、結婚する前からお家に遊びに行けば「夕飯食べて行きなさい」と言われ、腕をふるうのは主にお父さんだと聞いていました。
「バレンタインのお菓子を作りたいんだけど、義実家のキッチンはお義父さんのテリトリーのようなもので、使うのは気が引けるからそっちで作らせて」
と言われ、快くOKしたものの。少し人見知りの始まった孫娘は、母親がちょっと見えなくなると泣き出す始末。娘が見えるキッチンのすみに抱っこして座り、あやしたり絵本を読んだり、お昼寝したすきに娘にお昼ご飯を作って一緒に食べたり……。
夕方お姑さんが車で迎えにきてくれて、ふたりが帰っていってしまうとドッと寂しくなって、疲れも出た私は子どものようにはや~く寝てしまいました。
そして翌日noteを開くと、バレンタインのエピソードがちらほら……。
あぁ。
バレンタインデーにドキドキした日がなつかしい。遠い昔、まだ少女だった頃……と、はて? 一番記憶に残っているバレンタインといえば?
1987年の2月、高校2年生の冬。
すみません、残念ながら彼氏とのあま~いお話じゃありません……。
高校2年の時のクラスは、学生時代を通して今でも一番楽しかったと思えるほど、まとまっていて最高でした。今年のお正月に高校の同級生6人(ひとりはテレビ電話をつなぎながら)で地元で集まって飲みましたが、その時のつながりが元です。
高2の冬。バレンタインデーを前に、クラスの女子全員で放課後集まって相談しました。
「マノちゃん(仮名)に、チョコどうする?」
当時、全国大会にも出場したハンドボール部の女子が中心となって話し合いましたが、なかなか考えがまとまりません。
担任のマノ先生(仮名、私たち2-3の担任、独身男性、10歳年上の27歳)は、生物が専門の熱血教師で、みな大好きでした。背は158センチの私と変わらず、男性としては小柄でした。
背の高い男子生徒を叱る時の、下から睨みをきかせる姿は、なかなかに堂々とした態度で男女問わず信頼を得ていました。そんな大好きな担任へのプレゼントを、お金を出し合って代表が買いに行く、という考えには誰もぴんと来なくて、結論は、
女子全員が、それぞれ自分の贈りたいものを贈ろう!
でした。
そして2月14日当日。
帰りのホームルームが終るやいなや、教室を出て行こうとするマノ先生を、ハンド部のKさんが大きな声で
「マノちゃん!」
と、呼び止めました。そこへ……
クラスの女子全員が教卓へわ~っと走り寄り、それぞれの選んだり手づくりしたりのバレンタインのプレゼントを、「これ私から!」と積み上げたのでした。
私たちは昭和44年~45年生まれ、西暦1969~1970年生まれの団塊ジュニア、第二次ベビーブーム世代です。ひとクラス47人前後、女子だけでも23人ぐらいはいました。
マノちゃんは、最初こそ目をぱちくり、口をあんぐり、という感じでしたが、最後には笑顔になって、
「こんなに……、どうしよう」
と、いきなり着ていたスーツの上着を脱ぎ、
「これに、入れてこ!」
と、上着を風呂敷がわりに広げてお菓子の山をのせ始めました。
ふと廊下の方を見ると、教室の外から男子たちが、
「いいなぁ~!」
と、羨望のまなざしで見ていました。マノちゃんはその後職員室で誇らしげに、女子全員からの心のこもった一つひとつのバレンタインのプレゼントを自慢していたようです。
ちなみに副担任の美術教師へのプレゼントは手抜きもいいところで、美術部の女子が選んだでかいくちびる型のチョコレートでした。みな、その美術部の子から報告をもらったのみで、ひとりいくらかずつ出して終わり、もらった先生も、担任のマノ先生との格差しかり、色気もへったくれもない女子高生からのでかいくちびる型のチョコ、苦笑いだったに違いありません。
そして、このエピソードには当然後日譚があります。
そのお話も投稿することをここにお約束しておきます。
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