「遊び」に生きる 後編
昨日の記事のつづきになります。
昨日は、「遊び」の本質は「やってみたい」という動機ということを記事にさせていただきました。
人から押しつけられるものではなく、自分の内側から自然発生的に出る「やってみたい」という動機こそが「遊び」の正体です。
「遊んでいる」ときは、
「やりたいからやっている」という気持ちが原動力です。
一方、
「これは仕事だから」と言うとき、
その裏には「仕方がないからやっている」
という感情が隠れています。
本日も引き続き、「遊び」ついて考えてみます。
なお、本記事は、天野秀昭先生の『「遊び」の本質』を参考にさせていただいております。
「遊び」とは?
「遊び」と聞くと、公園で体を動かして遊ぶことを連想しがちだと思います。
ですが、「遊び」はもっと幅広いものです。
例えば、
動物図鑑を読みながらさまざまな動物を覚えていくことも、
新しい文字や漢字を覚えていくことも、
読書も、
やりたいという動機に基づいて行う行動は、
「遊び」と言えるのです。
「遊び」に正しさはいらない
「遊び」は「楽しそう」という感情が起点となります。
子どもたちは、「楽しそう」と思ったらすぐに遊んでしまいますよね。
以下はよく目にする、こどもたちの遊びの光景です。
ベッドをトランポリンに変えてしまう。
食事中にお箸やお皿を楽器に変えてしまう。
ハサミを持つとカーテンさえ紙に変えてしまう。
マジックやクレヨンで床や壁をキャンパスに変えてしまう。
そこに、大人の考えるような善悪はありません。
なぜ子どもたちは、大人が考える「正しいこと」をやってくれないのでしょうか?
「遊び」はコミュニケーション
それは、こどもにとって「遊び」が、
コミュニケーションだからです。
初めて出会うものや、初めて対峙するものに対して
自分がどのように働きかけると、どう変化するのか。
それを確かめる行為が「遊び」なのです。
なので、ものを壊したり、変えたりする「遊び」は、彼らなりのコミュニケーションなのです。
なぜ今、「遊び」が大切なのか?
私たち大人も、以前は子どもでした。
大きくなるに連れて、世の中の仕組みを学び、
善悪や正誤などを教育され、
世間様に迷惑がかからないように生きることを
しつけられてきました。
現代のような、システマチックな社会では、ルールや作業手順、安全き規律といったものが正解のようです。
なので、
「言う事を聞けないやつはだめなやつだ。」
こういう強迫観念に囚われてしまいます。
このような仕組み化された社会を
自分らしく生きるために必要なものは何か?
それこそが「遊び」なのです。
遊びは、
人から押しつけられるものではなく、
自分の内側から自然発生的に出る「やってみたい」という動機です。
人から言われなくても、やりたいからやる仕事はまさに、その人の個性そのものなのです。
「遊ぶ」ように働くの意味
わたしは前職で、大手飲料メーカー工場の機械保全をやっていました。
保全という仕事は、
設備を安定的に動かすことが大前提です。
挑戦的な働き方は、リスクと認識され、
毛嫌いされてしまいます。
つまり「遊び」のような働き方は認められないのです。
ここにずっと疑問を感じていました。
試してみることこそが、新しい技術を生み出す世界において、これまでの慣例通りやることのほうがリスクではないか?
「前例」という判断基準だけでは、新しい発想やアイデアは生まれないのではないか?
保守的な考え方だけでは、企業は発展しないのではないか?
「遊び」は、慣例を壊す手段です。
だからこそ「遊び」が必要だと思うのです。
善悪がわかる大人だからこそ、その殻を破ることにトライするべきなのではないでしょうか?
「遊ぶように働く」というのは、
決して「ふざける」という意味ではなく、
「やってみたい」という欲求をもって社会をよくしようという営みだと思うのです。
「遊び」に生きるの意味
仕事において、「遊び」が重要な役割を持つことがわかったと思いますが、「遊び」は人生においても重要な役割を持つと思います。
「やってみたい」気持ちは誰のものでもなく、
自分だけのものです。
自分の内から出る感情は、自分だけの大切な世界。他人の世界ではないのです。
「やりたい」という情動がある人生は、
自分の人生を生きることにほかならないと思うのです。
後編まとめ
尾崎豊の「15の夜」にこんなフレーズがあります。
「大人たちは心を捨てろ捨てろというが、俺は嫌なのさ」
これは
「「遊び」なんかいらない。社会のルールに従って生きなさい。」
という社会からのメッセージに対して、
「やりたいことをやるんだ」
という心の声を代弁してくれているフレーズだと思います。
ふざけたいとか働きたくないという意味の「遊び」ではなく、「自分の心に正直に生きたい」、「やってみたい」の「遊び」だと思うのです。
わたしたち大人がそういう社会を作ることこそが、
未来を生きるこどもたちにとって良い影響を与えると思います。
わたしたち自身が「遊び」に挑戦できないのに、
子どもたちに挑戦させることはできません。
だからこそわたしは
「遊びに生きたい」
そう思うのです。
本日も、長文を最後までお読みいただきありがとうございました。
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