【映画雑記】映画「ジーザス・クライスト=スーパースター」を観ながら真夜中に思ったこと。
夜中に1973年の映画「ジーザス・クライスト=スーパースター」をBGVに黒霧島のお湯割りを飲んでいた。言わずと知れたアンドリュー・ロイド・ウェバーとティム・ライスによるキリスト最後の7日間を描いた説明不要のクソ有名なミュージカルを映画化したものだ。
キリスト最後の七日間と言えばいわゆる「受難劇」と表現されるやつだ。それまで数々の神通力で民衆を圧倒させ、超人的なカリスマ性を誇ったイエスが、エルサレムに入城してオラついたのち、とてつもなく人間臭くウジウジ悩み始め、ユダに裏切られてローマに売られたのちにゴルゴダの丘で十字架に架けられる(のち復活)までを指す。なので、この映画ではイエスもユダも使徒もとにかく悩んでいる。民衆の心の救済を唱えるイエスと、既成の権威を打ち破る現実的な革命をイエスに求めるユダや使徒たちとのすれ違いが際立って描かれ、理想を求めて起こした行動は既に挫折寸前になっていることがわかる。
今まであまり気にしていなかったが、60年代のカウンターカルチャーの行き詰まりとうまくシンクロしていないかとビビビと感じて感心してしまった。公民権運動やベトナム反戦運動を契機に、若い世代の力で世界を変えられるかもしれないと世界を席巻したムーブメントは1969年をピークに瓦解。映画の原作となった作品は1969年から1970年に書かれたので作者が意識したかはわからないが、楽観的なカウンターカルチャーへの疑念から生まれた物語かもしれない。イエスが革命を志して挫折した者と見えなくもない物語は、図らずも制作当時の時代の空気を予見、結果として色濃く反映していないか。
ユダがイエスを「お前は誰だ」と問い詰めるクライマックス曲。イエスそのものへの問いかけでありながら、世の中を変えるとは、革命とはなにかと問う曲でもあると思うわけです。本作自体がイエス・キリストをテーマにしながら、同時代のムーブメントへの問いかけを持つダブル・ミーニングなのではないかと。
1973年公開の映画にしては出演者が妙に60年代すぎるルックスなのも、ヒッピー的な若者像を重ねているなら納得がいく。たまたまかもしれないけど…。
なんて思って色々調べてたら2012年のイギリスでのアリーナ公演の意匠がモロだった。イエスが活動家、革命家のイメージで演出されてる。以前より海外では日本で言う「エルサレム・バージョン」ではなく現代的な意匠を凝らした演出で上演されているみたい。しかし、わが国では残念ながらミュージカルの古典みたいな扱い。本来作品が持っているその尖った姿勢は改めて掘り下げて見直すべきかもしれませんよ。
また、そのわが国での古典化は一重に劇団四季のせいだと思う。昔から劇団四季に全く興味がないので「誰だお前は誰だ」と歌う日本版歌詞が昔からダサくて嫌いなのですが、そろそろ歌詞の新訳と「エルサレム・バージョン」から脱却しないと作品を殺すことになるんじゃないでしょうかね。
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