「この世ならざる音」を求めて/日本の電子音楽と大野松雄。
〇科学の時代の音楽〜電子音楽とミュージック・コンクレート
1930年代後半。ヒトラーの冗長な演説を途切れることなく録音、放送するため、ナチスドイツにおいてテープレコーダーの技術が完成した。
続く1940年代。テープレコーダーをはじめとする音を記録する科学技術の成熟とともに「テープ音楽」と分類される音楽がヨーロッパで生まれた。それには大きく分けて2種類の音楽が含まれる。一つは、発振器で発生させた単純な音を操作し、テープに録音する電子音楽。
【Poème électronique by Edgard Varèse】
もう一つは、自然界にある具体音などをテープに録音し、加工するミュージック・コンクレート(具体音楽)。
【Études de bruits by Pierre Schaeffer】
どちらも、作曲に五線譜は必要としない。なぜなら、録音した音を任意に編集・加工する作業そのものが作曲行為となり、録音された音が作品そのものとなるからだ。もう作曲家の意図が、指揮者の曲解や演奏者の技量に左右されないのだ。作曲家たちの創作意欲は大いに刺激された。20世紀の科学技術が、音楽表現の発展を促したのだ。ただ、当時の技術の限界もあり、作品としての自由度はかなり低かった。
電子音楽はセリー音楽、ミュージック・コンクレートはシュールレアリズムからそれぞれ影響を受けている。伝統的な技法の発展の末に生まれたセリーと、伝統を破壊するシュールレアリズム。この2つは本来、対立する要素である。
1950年代。作曲家たちは、それぞれの作曲・表現方法を、思想にとらわれずに貪欲に取り入れ始める。2つを隔てる境界は急速にあいまいになっていく。新しい音楽は早くも過渡期に突入した。
〇NHK電子音楽スタジオの誕生
その過渡期にあたる1954年、作曲家の諸井誠が、海外の論文の翻訳で電子音楽を日本に紹介した。当時、電子音楽の先駆者、カールハインツ・シュトックハウゼンがドイツ国営放送の放送局を拠点に作品制作を行っていた。
【Stuie No. 1 by Karlheinz Stockhausen】
この共同作業に着目した諸井は、NHKに電子音楽や、ミュージック・コンクレートの技術を持つスタジオの設置を提案する。彼はドイツへ赴き、音楽家のアイデアをラジオ局の音響技師たちが音にしていく過程をその目で視察。「テープ音楽」作品制作のノウハウを持ち帰った。そして諸井のイニシアチブによって1955年にNHK電子音楽スタジオが始動する。
「スタジオ」といっても実際は制作のための体制を整えたに過ぎず、当初は占有して使用できるスタジオもなかった。そのため、スタジオと機材の空き時間を縫って作品制作を行った。立案者の諸井をはじめ、1953年にミュージック・コンクレートを発表していた黛敏郎らが牽引役となり、電子音楽スタジオの存在は少しずつ日本の音楽界に知られていくようになる。1つの楽曲に3カ月という膨大な作業時間を要する音楽のためのスタジオ。しかし、作品が全てである作曲家たちにとっては時間など問題ではなかった。
新しい音楽の時代が、日本でも始まった。太平洋戦争が終わってからまだ10年という早さだった。
〇大衆娯楽の中の前衛芸術
一方、映画やラジオ、テレビなど大衆娯楽の音響を担当する技師の中には、早くから電子音楽やミュージック・コンクレートの技術に着目している者が多かった。NHK電子音楽スタジオ設立に先立ち、黛敏郎は文化放送の技術スタッフと協力して「ミュージック・コンクレートのためのX・Y・Z」を制作。1954年、音楽家・伊福部昭と東宝の音響技師・三縄一郎は、ミュージック・コンクレートを応用してゴジラの叫び声を生み出した。
この時点では、既存の教育を受けている音楽家より、大衆娯楽に携わる技術者のほうが意欲的であった。映画の撮影技術の進歩もめざましかった時代。必要に迫られて新しい手法を貪欲に取り入れていったとも言える。
その音響技師の中で抜きん出た存在が、大野松雄だ。
〇音響デザイナー・大野松雄
大野松雄のキャリアは、1949年に始まる。文学座に研究生として参加した大野は演出を学ぶつもりであったが、舞台の音響効果を手伝うようになる。そこで、マイクで録音した生音よりも、一から作った人工音のほうがそれらしく聞こえることを学ぶ。その経験を経てNHKのラジオ・テレビの音響効果団に加わる。同時期にシュトックハウゼンの電子音楽に触れ、電気的な音響効果に開眼。早々とNHKを退社し、1952年にフリーの音響効果マンとして仕事を始めている。50年代を通して、独自の方法で電子音楽に基づいた音響の研究を重ねる。
しかし、NHK電子音楽スタジオとは一線を引いていた。NHKには、活動の実績のない者に対して厳しい風潮があったからだ。権威主義への反発もあり、むしろ若手の音楽家たちと積極的に交流を持つことを選んだ。特に、大野と同じように、独学で音楽を学んできた経緯を持つ武満徹には、強いシンパシーを感じていた。「興味があることをやりたいだけ」という姿勢を貫き、TBSテレビのSFドラマ「惑星への招待」や、電子音楽を紹介するラジオ番組などに参加。映画では日本シュールレアリズム界の重鎮、勅使河原宏の作品などで活躍した。
映画に携わった経験は、のちの大野の姿勢を決定付ける契機となった。映画において音響は演出に必要不可欠な要素であるにもかかわらず、制作の現場では音響効果の立場は決して良いものではなかった。そこで、音効マンの地位向上を目指し、音響効果も一つの芸術であることを広く認めさせるため、「音響デザイナー」を名乗ることにした。
〇「鉄腕アトム」に参加
1960年代に入り、大野の仕事を後世に残すこととなる作品が生まれる。日本初の30分枠のテレビシリーズアニメ、「鉄腕アトム」である。言わずと知れた手塚治虫の代表作だ。
大野の活躍を知る制作スタッフの紹介で手塚治虫と出会った大野は、音響デザイナーとして全責任を持つ「音響構成」のクレジットと、アトムのために制作した音響の著作権を大野が持つという2点を手塚に了承させ、制作に参加する。大野はSFアニメに現実音は合わないと判断し、経験を活かした独自の方法で音響を制作する。テープレコーダー2台と人力のテープ変調未来的な音響。現在の感覚で耳にすれば、シンセサイザーで作ったとしか思えないものだった。テープ変調、切り刻んだ異なる音素材をつないで一つの音を作るといった様々な加工法、その技術は電子音楽やミュージック・コンクレートを通過している大野ならではの発想であった。
しかし、こうした前衛音楽のバックグラウンドを持つ感性は、時に手塚の演出意図とぶつかってしまうこともあった。その場合は「音響は音響のプロに任せろ」と、手塚に詰め寄り納得させたそうだ。後には手塚も大野に全幅の信頼を寄せ、一度、音響の下請け会社が変わった際にも大野を呼び戻したほどであった。また、「鉄腕アトム」が”Astro Boy”として米国NBCネットに売られた際には、エピソード1本、音響付きで1万ドル、映像のみで5千ドルとの値が付けられ、大野の手がけた音響の重要さを証明することとなった。
「鉄腕アトム」の放送終了後から10年後の1976年。大野の下に集まった若い音響効果マンたちの後押しで、アトムのために作った音響をまとめたLP「鉄腕アトム・音の世界」がリリースされた。当初はコジマ録音という小さなレーベルからのリリースであったが、現代音楽リスナーの間で話題となり、1979年に大手であるビクターから再リリースされた。2009年にオリジナルのマスターテープが発見され、LP盤と同じ仕様でのCD化が実現。50年前に生まれていなかった世代の耳を刺激している。
〇「この世ならざる音」を求めて
その後、1977年に東宝映画「惑星大戦争」に音響のみで参加したが、そのサントラLPには津島利章の音楽に加え、大野による電子音で作った小曲が特別に収録された。翌年、自身唯一のオリジナルアルバム「そこに宇宙の果てを見た!?」を発表する。その制作にはシンセサイザーも導入するが、電圧制御によるシステム化された音作りに面白さを感じなかったため、シンセの音をさらにテープ変調で加工する手法を取った。このアルバムにおけるディープな音響は、国内外のプログレッシブ・ロック愛好家に支持されている。その独自の音は21世紀の今も刺激的に響く。
1980年代は巨大な空間での音響に興味を移し、ボートピア81、つくば万博などの博覧会会場の演出で活躍した。1990年代は芸大の講師となり、次世代の育成に努めた。2009年、長いキャリアのなかで初となるステージライヴを開催。大野独自のライヴ・エレクトロニクスを、観衆に披露した。ここで大野が見せたのはやはり、オープンリールのテープレコーダーを人力で変調する手法であった。2011年には大野の半生を追ったドキュメンタリー映画『アトムの足音が聞こえる』も公開され、そのキャリアに改めて賛辞が送られた。
大野は現在でも、本人の言葉で曰く「この世ならざる音」、現実の世界に存在しない音を探している。
その追求は決して飽くことがない。
参考文献:
『電子音楽inJapan』田中雄二著 アスペクト社
<CDアルバム>
「鉄腕アトム・音の世界」(VZCG-712)
発売元:日本伝統文化振興財団
「そこに宇宙の果てを見た (I Saw the Outer Limits)」(EM1098CD)
発売元:EM Records
Special Thanks:当記事の執筆当時(2010年)、日本伝統文化振興財団の堀内宏公さんより参考となる貴重なご教示を頂きました。この場を借りてお礼申し上げます。
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