5万円の友達。
「ただいまー」
ソファにどっしりと腰掛ける”それ”にかけた言葉はおかえりの代わりに部屋に吸い込まれた。木製の”それ”は今朝そうしたように首を玄関に向けていた。
目のないそれの視線を背中に受けながら手を洗った。風呂場に入り、風呂のお湯を溜め始めた。部屋へ向かう途中の冷蔵庫から瓶のジンジャエールを取り出し栓を抜いて、”それ”の前にあるテーブルに置いた。スーツを脱いでジャケットとパンツをハンガーにかけてファブった。大袈裟にすると逆に臭いので湯引きのようにファブった。シャツと下着は洗濯機へ投げ込んだ。
「今日も疲れたよ、今日も」
”それ”の隣に腰掛け、話しかけた。
”それ”には名前がない。
”それ”に出会ったのはリサイクルショップだった。未曽有の流行をみせたウィルスによって倒産した企業で使っていた椅子を安く買おうと少し離れた大きなリサイクルショップに行った。そこで”それ”は『雑貨・おもちゃ』のコーナーにぬぼーっと立っていた。味のある染みが右の前腕にある木製のマネキンだ。子供の頃に出先でよくいじって遊んでいた指の関節がしっかりある木製のマネキンがそこにはあった。‐¥50,000-の値札が胸にでかでかと張ってあった。どうしても抑えきれなくて椅子の予算ごと有り金をそのまま”それ”に使った。
”それ”を抱えて電車に乗るのは少し恥ずかしかったが、抱えて持ち帰り家に迎え入れた。
かくしてこいつは5万円の木製のマネキンと同居している。
テーブルに置いた瓶が汗をかき始めたところで口をつけた。辛口のジンジャエールを飲むためにあえて炭酸を抜くのがこいつのこだわりだ。今日はいつもより元気があるようにみえた。
「今日も椅子に座ってパソコン眺めてさぁ、俺のが仕事できるのに難癖ばかりつけてくる奴の相手して、サイテーだったよ。いいところなんて室温が心地いいくらいだ。」
「・・・」
「朝も早いし、電車は行きも帰りもぎちぎちだし、彼女もいないし、趣味もないし。」
「・・・」
「酒も飲んでないのに何でくだまいてるんだろうなぁ、マネキン相手に。」
「・・・」
「ただの屍ってか。」
「・・・」
「お前だけだよ、俺の話を聞いてくれるのは。」
「・・・」
「風呂入ってくる。」
そう”それ”に語り掛け、”それ”の肩を叩いた。
こいつはいつもこの調子だ。毎日飽きずにマネキンに話しかける。もっと世界に目を向ければいいものを、自分の中にばかり目を向けて行きついた先がマネキンだ。生活もきっちりしていて酒も煙草も賭けもやらないしっかりした奴なのに何をそんなに悲観しているのか。
しばらくしてシャワーの音が聞こえてきた。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
今日は長風呂らしい。
シャワーの音が聞こえている。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
シャワーの音だけが聞こえている。
どれくらいたっただろうか。見知らぬ人たちが部屋に入ってきた。友達じゃない人たちが部屋に入ってきて風呂から友達を連れ去った。濡れた友達はいつもに増して顔色が悪かった。
どれくらいたっただろうか。いなくなった友達は帰ってくることはなかった。部屋のものが友達じゃない人たちによって運び出された。友達が着せてくれた服も、気に入っていたマグカップも、内容は頭に入っていないのにみていたテレビも何もかも運び出された。
どれくらいたっただろうか。それらと共に運び出された私はまた一人になった。ひどい匂いに囲まれながら私は青空の下を疾走した。
私の友達、私は5万円の友達。