さむらいぼーい。
あれはもう10年も前の夏のことだった。その年は昨年始めた中古品の売買サイトが波に乗った年だった。そしてその夏、野望を胸に100キロも先の街にオフィスを構えることが決まった俺は馴染みのパブに飲みに来ていた。
「まさか仕事でこの町から出ていくやつがいるなんてなぁ。」
未成年の時からこっそり酒を飲ませてくれている髭の店主が言った。俺の童貞はこの人がいなかったら未だ健在だったかもしれない。お気に入りのオーバーオールは色があせきっていて廃墟のプールみたいだ。
「ずっといる方がおかしいのさ。この町は通り道だからよそに行かなくても面白い話はたくさん聞けるけどな、よそ者はもうしゃぶりつくしただろ。」
親父のぼやきに適当に返した。
「ナマ言いやがって。泣きべそかいて帰ってきても酒は奢らねぇぞ。」
親父が笑いながら言った。下あごの乱杭歯が良く目立つ。
「今まで奢ってくれたことなんてないじゃないか。」
俺は背もたれに体重を預け、脚を組んだ。
「お前の高校時代に彩を添えたのは誰だと思ってやがる。」
見慣れた笑顔で親父は言った。
「あんたの言うその彩は若人の吐瀉物のことかい?」
親父と俺の笑い声が店内に響いた。
「楽しい青春時代だったんだね。あんた、この町をでるのかい?」
少し離れた席の男が話しかけてきた。よそ者は珍しくないこの町で、珍しい外見だった。恐らくアジア人であろうその男は小綺麗なジャケットを着ているが俺より年下に見えた。不思議な雰囲気の男だった。ジャケットのせいなのか、珍しい風貌だからなのかはわからないが、妙な男だった。
「そう、東の方にね。友達と起こした会社が大都会へと1歩近づいたのさ。そういうあんたはどっから来たんだい?」
男の方に体を向けた。
「僕は日本から来たんだ。23歳。大学を卒業して今ふらふらしてるんだ。」
そういいながら男は瓶を傾けた。あまりビールは得意ではなさそうだった。
「へぇ、俺と同い年だったのか。アジア人は若く見えるっていうけどこれほどとはね、サムライボーイ。」
からかうようにそう言った。
「日本じゃ年上にみられることが多いんだけどなぁ。やっぱりジャケット着てても子供っぽいのかなぁ。」
そういって自分の体を確かめるように眺めた男はより幼く見えた。
「あんたいつ町をでるんだい?」
男は言った。ここで気が付いたが、こいつの雰囲気はその喋り方からきていた。見た目と発音に反して落ち着き払ったその喋り方が独特な空気を帯びさせていた。
「明日。明日の夜に車で。今日がこの店に来る最後の日ってわけだ。」
そう口にすると途端に名残惜しくなってきた。
「そうかい。そんな特別な夜に出くわせて光栄だよ。1杯奢らせてくれないか?」
男は柔らかく笑った。
「ありがたいね。親父、日米友好の証にレモネードを。」
「来航したのは僕の方だけどね。」
間髪入れずに男が言った。ユーモアのあるやつだった。
こんなやりとりをしながら一緒に飲んだ。温まってきた店の中で男と俺は酒を奢りあっているうちに飲み勝負へと発展していた。
「出会ったばかりだがお前には負けてもらうぜ!餞別にしてくれる!」
俺は言った。
「そいつはどうかな!お前はポッと出の日本人に負けた事実と二日酔いを抱えて町を出るんだ!」
男は言った。
ショットグラスを掲げ、俺たちは酒を飲み干した。
「もー限界じゃねぇのか?サムライボーイ。手が震えてるぜ!」
俺は言った。
「お前こそ。そんなうつろな目でこの銃社会を生きていけるのか?」
男は言った。
ショットグラスを掲げ、俺たちは酒を飲み干した。
こんな押し問答が1杯、また1杯と続き、店のボルテージは上がっていった。
「ジャパニーズサムライはサケを飲んだらふらふらになるんじゃねぇのかよ!」
もう何杯目かもわからないショットグラスをテーブルに叩きつけながら俺は叫んだ。
「サムライをなめるんじゃぁない!ここで負けたらハラキリしてやる!」
男はそう啖呵を切るとルールを無視して一気に2杯ショットグラスを傾けた。
「これ以上飲んだら内陸のこの町に新たな海岸ができちまうよぉ。」
こうして俺は負けた。
店のボルテージは最高潮に達していた。男は担ぎ上げられ嬉しそうだったが次第に顔色が悪くなっていった。お互い気が抜けたのか、我先にと店の外へ急いだ。店先に新たな海岸が誕生した。
そこから先は覚えていない。果たして俺は酒代を払ったのか。どうやって帰ったのか。目が覚めて確かだったことは昨晩競り合った奇妙な友人はそこにはいなかったことと、頭に撃ち抜かれたような痛みがあることだけだった。
―
俺は店を出た。10年前とは違う埃1つない綺麗な店を。
昼間の喧騒が嘘のようにビル街を静かな夏の風が吹き抜ける。
中古で買ったジャケットが風を含んだ。