ウゾウとムゾウ。
あるところに全ての形あるものを司るウゾウがいました。ウゾウはいうなれば神様に近いもので、塵から果てしない海、道端のクソから半導体までをも司っていました。
あるところに形のない存在、ムゾウがいました。ムゾウはいうなれば現象、理、最も全てに近いものでした。誰にも何にも知覚されることはありませんが、世界にとって、裏から支えるタイプの飲食店店長、一言だけ深い助言をする名も知らないおじいちゃん清掃員、教養のある両親のような存在でした。
ある日ウゾウはせっせと物質を生み出していました。生み出しているというよりは物質へと変わっていきました。ウゾウは集合体で、あらゆる生物が生活に利用している資源も、発明もウゾウ自身なのです。
ウゾウは、退屈していました。ウゾウを悩ませていたのは人類でした。来る日も来る日も資源を使い捨てる人類に悩まされながら物理法則すら無視して物質へと生まれ変わっていました。人類が持続可能性を議論しているのを、地球が不毛の地になることを防ごうとしているのを、それこそ不毛だと横目にしながら全ての営みを支えていました。
ムゾウもムゾウで、毎日せっせと世界を形作っていました。せっせと送るこの毎日でさえムゾウが創りだしたものでした。風を起こし、海を動かし、全てを引っ張り、あらゆる法則を維持しながら暇つぶしに人類に悟りを与えていました。ウゾウの物理法則を無視する力もムゾウによるものでした。
理であるムゾウは存在すらはっきりしない自分が行っていることに疑問も不満もありませんでした。しかし、ウゾウは違います。影ながら世界の全てを支えることに飽き飽きしていました。
そこでウゾウは自らの存在を示すことにしました。物質を必要とするあらゆる生命体の前に姿を現し、求め探す必要はない、望めばそこに臨んだ形で現れてやると示しました。
それから世界は大きく変わりました。人類の中における全ての価値が無へと成れ果て、経済は止まり、それぞれが望んだもの全てを手にしていきました。野生動物も、植物も、微生物も、生命活動をウゾウに依存するようになり、全ての生物が無尽蔵に個体数を増やしていきました。
ウゾウは埋まっていくスペースを補うために地球の規模を拡大し続けていました。全てをわかりやすく与えても、求め続け、これまでと何も変わりません。それどころか全てを与えたことで全てが停滞し、全てが無意味に思えました。
ウゾウは気が付きます。追い求めることこそ本質であると。望んだものに姿を変える自分であったが、全ての活動の意味は自分を追うことにあったのだと。
そして、世界と同様に意味を失ったウゾウは姿を消しました。
そんなウゾウをムゾウはみていました。ウゾウは初めてムゾウを知覚します。ムゾウは言いました。「落ち込むところではない。意味なんて始めからないんだ。求め行動したその奇蹟が意味になるのであって全てに意味なんてないんだよ」
そうしてウゾウとムゾウは1つになりました。
暗闇に幾筋もの光が差します。音のない大爆発の後、全てが誕生しました。
有象無象が。