浮遊。

 未来とは、体験しうる概念の中で最も得体の知れないものでありながら当たり前に訪れるものである。

 将来なりたい自分を想像し、そこを目指して生活している人間がどれだけいるだろうか。

 僕は虫が触れなくなった。幼いころは図鑑を読み、ムシキングをプレイし、父と何キロも自転車を漕いで遠方のダムにトンボを捕まえに行くほど虫が好きだったのに今では触れない。幼いころに興味を惹かれていた自分とは違いすぎる造形や習性が今では恐怖の対象である。

 僕は未来が怖い。虫と同じように未来を考えること、未来に向かっていくことに恐怖を感じるようになった。小学校、中学校、高校と文句を言われないように生きてきた。今目の前にあることだけを処理することに必死でそれほど未来を意識していなかった。未来に向かっているはずが未来が向かってきている。未来はいざ、目の前に来てしまえば現在でしかない。少し前に無数にあった選択肢から全てはうまくいったか、そうではなかったかの二つに帰着される。

 僕は未来が怖い。無数の選択肢を創造し、選択し、終わりが見えないこの循環に恐怖を感じる。うまくいかなければ訪れる結果は全て自分で招いたものであるにもかかわらず自分で抱えられる範囲を超えてくるからだ。

 僕は未来が怖い。行き先が見えない恐怖を乗り越えようと、定めた目的地も切る舵も曖昧だからだ。

 恐怖を乗り越えるには曖昧であっても自分を信じ、今を考え続けることだ。考えるほど選択肢は増えるが、切り捨てることもできるからだ。無情にも訪れる未来への恐怖を乗り越えるには自らが未来に向かうしかないのだ。

 恐怖に、自分に、抗い、寄り添う。

 訪れるモノなのか、訪れる者になるのか。虫にしろ未来にしろ自らの意思で触れにいくことでしか抗うことも寄り添うこともできやしない。

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