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自分の人生に出発する人のためのブックガイド
もうがんばれない
今から十数年前。大学受験の雰囲気濃い教室の片隅で、当時高校生だった僕は鬱々としていた。
受験、もうやりたくない。
この世は予定説なんだろうか
中学生の時、僕は第一志望の高校に受かりたくて、でも模試では直前までC判定しか出なくて、受験に失敗した後の人生は真っ暗だと思っていて(親からできれば公立に行ってくれと言われていた)、深く思い詰めながら受験勉強にかじりついていた。
ずっと苦手な数学が難しい。
同時に、発達を続ける脳味噌は、これまでになく形而上学的なことまで考えられるようになっている。
もしかしてこの世界の運命はすでに神か何かによって決められていて、人間があくせく努力したところで結果は変わらないのではないか?
僕は第一志望の高校に受かれない運命にあるのではないか?
だったら勉強しても無駄ではないか?
でももし無駄じゃなかった場合、ここで諦めたら本当に不合格になってしまう。
頑張らなければ。でもこの頑張りは全部無駄かもしれない……。
僕の頑張りはどうやら無駄ではなかった。僕は第一志望の高校に入ることができた。
しかしその数年後には、大学受験が足音立てて追いかけてくるのである。
僕は高校受験の時点で燃え尽きていた。
進学校の雰囲気が窮屈だった
そもそもなぜ「大学には行かなければ」みたいな風潮があるのだろう。なんなら高校からそうだ。義務教育は中学校までなのに。
最低限高校は出ておかないと、大学は出ておかないと……って、小さな人間に課されるハードルは時代がすすすむごとに上がり続けている。社会の仕組みがそれを容認している。
まるで僕たちはベルトコンベアの上に乗せられた社会の部品だ。
良い大学に入り、良い会社に入り、良い人と結婚し……という「幸せのお手本」みたいなものに従うように流されていく部品。ではそこに乗れなかった人はどうなってしまうのだろう? 当時の僕は「ホームレス」や「孤独死」という概念を知っていた。そこに辿り着くんだろうか? でもその経過はどうなっているんだろう?
「幸せ」の坂道を転がり落ちるように不幸になって、たった一人で死んでしまうのか?
分からない。
分からなかった。当時の僕には。
当時の僕が知っていたのは高卒と大卒には賃金格差があることくらい。男女の賃金格差、大学進学率の地域差、男女差、そこに根を張る家父長制……等々については、何も知らなかった。
ただひとつだけ分かっていたのは「もうがんばれない」ということ。
僕はそれよりずっと前から小説家になりたかった。小説家は学士の資格が要るような仕事ではない。つまり僕が大学受験を頑張らなくてもなれる。
最終学歴:大卒じゃない人と出会え
大学受験へのレールにこのまま乗っていたら、自分のいちばん大事な核--魂とでも呼ぼうか--がすり減って消えてしまうのが分かっていた。僕は死にたくなかった。
大学に行かずに、自分の好きな仕事がしたい。
大学に行かずに生き抜く方法はないのか。
僕はロールモデルを切実に必要としていたが、手の届く範囲にそういう人は見つけられなかった。
彼らは本の中にいた。
人生の方向転換はいつやってくるか分からない
進学校に通っておきながら「自分、大学行かないんで」と宣言し実行するのは、僕にとって初めてのドロップアウトだった。
ドロップアウトを決意し人に宣言する瞬間て気持ちがいい。
例えるならば。
背負い続けなければいけないと思い込んでいた、重い重い荷物から解放されたような気分。
急に視界が開け、「今から自分はどこにでも行ける」と両手を思いきり広げるような感覚。
僕にとっては進路選択が最大の解放感をもたらしたけれど、僕は高校卒業後の十数年間で、類似の解放感を何度か味わってきた。
様々な事情でバイトを辞めた時である。
仕事を辞めるのも勇気がいる。なんで人間は簡単に引けない状況にばかり飛び込んでしまうんだろう。
でも、ともかく、渦中にいる時はどうしようもなく逃げ場がない感じがして、でもい続けるのは苦しくて、必死にもがいてしまう。
僕を助けてくれた本たちが、他の誰かのことも助けてくれるかもしれない、誰かが背負った責任感とか「こうあらねばならない」みたいな思考の固まりをほぐす力になるかもしれない、と願っている。
人生の方向転換をしたくなる瞬間は、それぞれいろんなタイミングで訪れるものだと思う。僕はたまたま高校生の時だったというだけだ。
「自分の人生、このままでいいんだろうか」
「これをやりたかったはずなのに、なんでこんなところにいるんだろう」
そんな疑問にぶつかったとき、足が止まった時。
心を軽くして、自分が「そっちがいい」と思える方向に歩き出すことを支えてくれる本があったなら。
そんな気持ちで、僕が当時助けてもらった本にプラスαした本たちをご紹介する。
家入一真著『こんな僕でも社長になれた』(イースト・プレス)
実は最初に家入氏の本で手に取ったのは『15歳から、社長になれる』の方だった。
これはビジネス書の棚に並べられるような起業指南書なのだが、本書内で簡単に著者の来し方に触れられており、それが「いざとなったら起業」という新たな選択肢の発見以上に僕の心を掴んだのである。
曰く、著者は逃げ上手であり、高校にうまく通えなくて最終学歴で言えば中卒に当たるとか。
当時の僕は自分の最終学歴を高卒にするかどうかで悩んでいたので、中卒で社長とはさらに上をいく人を見つけたと思った(ものすごく失礼なことを言っていると思う。バカヤロー)
起業のノウハウよりも家入さん自身について知りたくなり、『こんな僕でも社長になれた』を手に取ったというわけである。
18年の人生において「逃げるは負け」「負けはいけないこと」「負けたら生きていけない」と思い込んできた僕にとって、家入さんが著書の随所で発する
死ぬなら、逃げろ
というメッセージは強烈で、僕の価値観を根底からひっくり返した。
逃げた先にも生きる道があり、そこをすでに歩いている人がいる。
現在は当時以上に「ひとり起業」とかが叫ばれているが、やはり事業を立ち上げて軌道に乗せるのは大変であろう。本書の中にも苦労話がたくさん載っている。
幼少期にどれだけ逃げようが、うまく行かなかろうが、事業を起こして社長業を収入の柱とすることができるのだ。つまり過去は、現在あるいは未来の成功失敗に対して何も関係がない。
辛くなったら逃げていい、常にがんばり続けなくていい。
僕の人生にその価値観をもたらしてくれた点で、この本はとても力強い。
pha著『ニートの歩き方』(技術評論社)
著者のphaさんは京大卒であるが、プロのニートである(※)。
(※あった。と言った方が正しい。現在phaさんは書店でアルバイトをされているそうだ。phaさんの最近が知りたい方は2024年刊行の最新刊『パーティーが終わって、中年が始まる』を読むのがおすすめだ。お気楽エッセイである)
「ニートにプロとかあるんだ……」
というのが、この本を読み始めた僕の感想であった。
この本ではphaさんの毎日が紹介されると共に、「もしも著者と同じように毎日学校や会社に通うのがしんどくて、ニートもいいなと思うのなら」という観点で、ニートになっても生きていけるライフハックや心得が満載されている。とても実用的な本なのだ。
まだバイトもしたことがなかった高校生の僕には「クレジットカードを作っておけ」とか「身分証明で困らないために」とかはあまりピンと来なかったけれど、今となればそれが重要なアドバイスであることは理解できる。この本はとにかく実用的だ。
そして実用的であるからこそ、説得力がある。「働かなくても資本主義社会を生きていける」という説得力が。
もちろん収入は減るわけだから毎日回らない寿司屋に行くような暮らしは難しかろうが、それでも生きていくことができる。
人間みんなが働かなければいけないわけではない。
そんなふうに思わせてくれる一冊だ。
pha著『持たない幸福論』(幻冬舎)
上記『ニートの歩き方』よりも、より思索的なことにフォーカスが当たっている一冊。
仕事・家族・お金に関して「〜ねばならない」「〜すべき」のような固定観念の縛りが強い人にぜひおすすめしたい。
phaさんは流れるように読めて、心にスッと入ってくる文章をお書きになる。
だからこの本もエッセイでも開いたつもりで読んで、読んでいるうちに「そんなに堅苦しく考えなくてもいいかも」と思える効果がある。
固定観念がゆるんだところで「じゃあもっと気楽に生きるにはどんな方法があるの?」と思ったら、『ニートの歩き方』を読んだり、note内で多様な生き方をしている人の文章を探したりすればいい。
おわりに:高卒だけど生存中
最後に僕の現在の話でも少ししておこうか。このパートはおまけのようなものなので、読み飛ばしていただいても一向に構わない。
「受験に失敗したら人生おわり」
とまで思い詰めていたのは学生時代の僕だ。
受験レールからドロップアウトして十数年が経つが、楽しく生きている。まだ人生が終わっていない、というのがミソだ。なんとかなるものである。もちろん時代や景気の影響もあろうが。
僕は僕について、世界について、知らなかったことを発見し、価値観がずいぶん変わった。
あの頃一緒に暮らしていた飼い犬は虹の橋を渡ってしまった。
数年前に知り合った親友たちがいる。
まさか自分が住むとは思わなかった町に住んでいる。
全然人生終わらなかった。むしろあの頃より楽しい。
あと去年あたりから、「そろそろ大学に行ってもいいな」と思えるようになってきた。
当時から、別に大学という学術機関を毛嫌いしていたわけではない、ことに気づいた。当時は大学に行って学びたいことがなかったのだろう。それよりも書いていたかった。
けれども僕が新たに学びたいこと、取ってみたい資格にはどうやら大学を通過することが必要らしい。大学は大人になってからでも行ける場所だ。遅めのキャンパスライフを送るのが、この人生の中でのまったりした目標である。
ただ一つ忘れたくないのは、「違うな」と感じた時に方向転換できる身軽さ。
お金とか暮らしとか、人類文明に近接しながら暮らすには切ってもきれないものとのバランスをとりながらも、でも人間って本当はもっと自由なはずだ。
その本来性を日常に埋もれさせたくない。
いつの間にか育ってしまっている「〜ねばならない」とか「〜すべき」に気づくたびここに立ち返ってきて、人間てもっといろんな生き方していいんだよな、と何度も気づいていたいと思う。
最後に曲を一つだけ紹介。
*Lunaさんの「エピローグ」という曲で、高校卒業間際にめちゃくちゃ聴いていた。
何かになりたい主人公が、あるべき道を蹴って自分の道を歩き出す曲だ。
自分の人生を自分の手に取り戻し、これから歩いていこうか、歩き出そうかと思っている人の心をきっと支えてくれる。
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