【呼吸のワーク日記】(2024.8.25)
前回(8月10日)はM先生のオリジナルワークにお邪魔したので、実際に体にアプローチする時間は少なく、そこからお盆のお休みモードになっていたせいか、ちょっと体が固まり気味で動かしたいなあと思って臨んだ対面ワークショップ。
思った以上に深く体の声を聴き、体と対話し、自分の体がここに在ることの意味を改めて感じた時間になった。
自分の足の形をなぞるワークで、最初、目を瞑ってイメージの足の形をなぞっていたのだけど、足先が「目を開けて。私を見て。」と言っているような気がして、目を開けて改めて自分の足を見る。
そこから手でなぞっていくと足の形や指の曲がり具合、足の甲のボリュームなど、私の足ってこんなラインを描いていたんだと改めて発見する。
そしてその中でエネルギーや血液が動き、呼吸によって膨らんだり縮んだりするのをリアルに感じる。
足首、脛、膝、太もも、股関節と遡上してその部分の声を聴きながらゆっくりとただ触れていくと足全体に窓から聞こえてくる蝉の声が染み込んでいく感じがする。
音って耳からだけ聞いているんじゃないんだね。体全体に染み込んでいくんだと実感した。
やった方の足とやっていない方の足、見るだけで全然違って見えると言われ、もう一方の足も同じようにやり始めてみたが、もう一方の足は全然違うアプローチを求めてくる。触れていった感じも違う。
それでも両方の足を触れ終わると「声が変わった」と言われる。
そこから骨盤内、仙骨や仙腸関節のあたりを丁寧に感じていくと、骨盤内の風通しが良くなったような感じがして、そこからまた呼吸が流れていく。
ここまでのところでもやっていた動作は立って自分の足を見て手でその形をなぞるような動きをすること、足や膝、足の付け根などに自分で丁寧に触れてみること、その程度しかしていない。
それでも整い始めた体はもう力を入れて伸ばしたり広げたりするのはかえって気持ちが悪いと言い始める。
そして自ら周りの全てのものを感じ取り始める。先ほど足全体に染み渡ると感じた窓の外の蝉の声を含むあらゆる音、人の耳では音と感じられないような周波の音、音以外にも世界の中で人が営んでいることはきっと粒子のようなものとして自分を取り巻く空気の中に含まれていて、私の体はそれを受け取りながら、私としての何かを外に向かって発していく。それも取り込んだ空気がまた流れて誰かの体に受け取られて、またそこで何かが変わっていく。
体があることで制約されることは確かに在る。そこを超えてイメージで世界を広げていくことも大事だ。
だけど、体という一塊のものが確かにそこに在るということにはきっと意味があって、その体というものの実在を時々確かめていくことってきっとすごく大切なこと。
そのことを深く感じさせられた時間。あまりの濃厚さに珍しく会場を借りている時間よりも30分くらい前に先生と私、どちらともなく「今日はもうこれ以上やらなくてよいよね」と言い出して、会場を片付けて終了。
今日は良い意味で体に疲れが出るかもしれませんよという先生の言葉を帰宅した今、少し実感している。