「知った気にならない」って難しいというお話
久
最新の投稿から1カ月程経った。
もう「スキ」を知らせるメールはほとんど来なくなって、noteと自分との距離が空いたことを実感している。
年明けからは少しバタバタしてしまったし、やりたいことができたから更新をあえて控えていた。
今ではやっと落ち着いて、2カ月越しに年末年始かのようにゆったりと過ごせている。
でも考えが深まっていくことが増えたし、少し書きたいと思うきっかけがあったのでこのページを開いた。
きっかけ
少し前、ある人と人間関係についてとかマインドについてとか、少し深い話をする機会があった。
その中で私が文章を書くのが好きだという話になったときにこのnoteを書くきっかけがあった。
好きなことをやっていったらいいと言ってくれて、その中で
「文学賞だったりブログだったり書いてみたら?」
と助言をもらった。
私は内心、
「もうnoteは始めているし、エッセイコンテストには応募したことがあるし、次はもっと大きなコンテストや文学賞に応募しようと思って調べているのにな…。」
と思った。
その人自身は悪意があったわけじゃないし、私がより幸せになれることを考えて発言してくれたのだとは思う。
だからその人に対しては感謝を抱いたけど、あえて尖った見方をするならこれがいわゆる「知った気」なのではないだろうかとも思った。
人は自分の見たものでしか判断できない
今回の話は、私がその人に話していないから状況を知らなくてしょうがないことだし、自分が話さない選択を取っているのにこちらが何かを言うのは理不尽だと思う。
この一言を受けてその人に対して何かを思うというより、私自身を省みるきっかけができた。
以前、ダラダラとネットを見ているときこんな文言を見つけた。
「実力より魅せ方」
これはあながち間違いじゃないと思う。
「どう見えるか」「何が見えているか」
その人を判断するためにこれらは重要な判断材料になる。
見(魅)せられないと判断できない訳で、持っていても魅せれなかったら選ばれることはなし、低く見積もられる可能性もある。
しかし、見えないものを考慮し続けるのは難しいことだと思う。
そのため、見えているものだけが評価材料になってしまうことは自然なことであり、同時に背景を無視する可能性のある危険を孕んだことなのではないだろうか。
つまりあの人も私の見えている情報を元に話したに過ぎない。
しょうがないことだけと、自分もそれを無意識にしているとしたら誰かを傷つけているかもしれない。
であればどうしたらいいのか。
尊重しつつ知ろうとし続けるとか、見えないところで爆弾抱えていると意識し続けるとかそういったマインドでしかないのだろうか。
そういったマインド1つで言動が変わっていくことは分かるけれど、それで自分が相手を傷つけていないという確証はどこにもない。
私達は何も約束されない中で綱を渡るように会話を進める必要があるのかもしれない。
最後に
「知った気にならない」って本当に難しい。
考えが深まることがあればまた書こうと思う。
もし心がけていることがあるなら教えてほしい。
では、また。