見出し画像

“あの春”に想いを馳せて



記憶に新しい去年の春、SEVENTEENのセカンドジャパンシングル、”舞い落ちる花びら”が発売された。ラジオで、初めて音源を聴いたとき、その旋律の美しさに全語彙を失ったのを今でも覚えている。初めてパフォーマンスを見たときも同様、当たり前に語彙力を失ったが、その時はまだこの曲がこんなに特別な曲になるなんて思ってもいなかった。そして、こんなにもSEVENTEENが自分にとって特別な存在になるなんて想像もしていなかった。


春に発売された”舞い落ちる花びら”はその歌詞と振り付け、また、日本語の曲であることから、桜がモチーフにされているのではないかと思う。桜が風に吹かれてそっとその花びらを空気に浮かべるあの瞬間に、わたしはいつもなにかを失ったような気持ちになる。春は出会いの季節であるが、出会いがあるということは、その分だけ別れがあるということ。解りもしない”何か”と別れたことで、いままでいっぱいだった心に余白ができ、はやく変わりの”何か”をつめなければと生き急いでしまうのだ。そんなことを考えて過ごす春の独特な空気と、舞い落ちる花びらの少し哀愁漂うメロディーが相まって、春の色彩を鮮やかにしてくれた。ウジくんは本当に、心の季節を切り取るのが上手な作曲家だと思う。


春の曲だからといって、夏も秋も舞い落ちる花びらを聴く。きっと生きてる限りこすり続ける。夏や、秋に聴くこの曲は、気持ちの引き出しの鍵みたいな存在だった。行き場のない喪失感におそわれた”あの春”のことを思い出し、そのたびになくした”何か”について考えれば、失ったものがなんだったのか分かったような気がした。それは、これからもずっと同じ日々が続くと願った希望であったり、この前まで肩をならべて歩いていた友人が急によそよそしくなったことへの寂しさだったと思う。春にぼやけていたものが、季節がめぐって鮮明になってくる。滴るのは汗になり、舞い落ちるのは紅葉になったが、この曲を聴けばいつだって、心に”あの春”をつれてきてくれた。


そして冬、雪が舞う季節。日本語で歌われたこの曲は韓国語になり、本国でもあのメロディーにのせて彼らのステージを見ることができるようになった。先日のSMA(ソウルミュージックアワード)での”舞い落ちる花びら”は青白い光に照らされた13枚の花びらが可憐に舞うところから始まり、徐々にステージライトを鮮やかな色に染めていく。その様子はさながら春の訪れのようで、「ああ、今年もSEVENTEENが春を連れてきた」とぼんやりと思った。春には、舞い落ちる花びらで晴れた日の暖かな空気を、夏にはKidultで暑さが少し冷めた夕暮れを、秋には日本語247で日が落ちるのが早くなった夜を、冬にはAll My Loveで鼻の奥がつんと冷える老けた夜を、どんな季節もどんな時間もSEVENTEENとあった2020年。いいことばかりではなかったけれど、思い返して見れば記憶の中はいつだって愛しさにあふれている。ありふれた、ただ過ぎるだけだった時間を、特別なものにかえてくれた13人に、今とてつもない感謝でいっぱいだ。もう去年と同じ春は来ないけれど、新たな春の芽生えもSEVENTEENと一緒ならきっと素敵な季節になるだろう。少し虚しい”あの春”にさよなら、まだ知らない”あの春”に想いを馳せて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?