見出し画像

短編小説「ぶどう畑で懐古する」〜Kindle出版短編小説集「RING」より。

日本ワインとデラウェアをテーマにした、短編小説集をKindle出版にて電子書籍化させていただいた。
この作品の中の短編を一つ公開するのので、宜しかったらご一読いただきたい。


『…そういえば、そろそろデラウェアの収穫が始まるころですね。ぶどうといえば秋のイメージですが、生食ぶどうのデラウェアは夏に採れるぶどうなんです。もとはアメリカ原産なんですが、日本では全国的に栽培されているポピュラーな品種で、昔からワインにも…』


 カーステレオからは、お馴染みの女性の声が流れていた。ただ、車の走行音が邪魔してしまい、声が聞き取りにくい。安藤悟は、ステレオのボリュームを上げた。一時帰国で何度か日本で運転はしたが、やはり右ハンドルはなかなか慣れない。

 関東でワインバーを経営しているらしい「SAEKO」という女性のこのポットキャスト番組は、安藤がフランスはアルザスにいるときからずっと聴いていた。ワイン以外にも、色んなことを一人で楽しそうに語ってるところが、好感が持てたのだ。

 異国に住んでいると、日本語がどうしても恋しくなる。現地にも日本人のコミュニティはあったが、安藤はあまり馴染めなかったから、無料で聴けるこういうサービスはありがたかった。地元も日本も嫌で飛び出したくせに、皮肉なものだ。

 最新の配信は、タイムリーなことにデラウェアのことを話していた。これから安藤が行くのは、それこそ彼女が話しているデラウェアを栽培している農家だった。

 小さな頃から慣れ親しんだ、生まれ故郷の道、と言いたいところだが、十九で飛び出して以来もう十五年以上経つから、土地勘は薄くなっていた。新しい道路ができて古い建物は建て替えられていて、記憶と現実が一致しない箇所ばかりだ。

 仕方なく、車に『川田ぶどう園』とナビに打ち込み、それを頼りに道を運転している。仲が良かった従兄の家にすら、ナビなしでは辿り着けないとは、情け無い話だ。

 人はテクノロジーの進化ともに、同時にそれらに敗北して退化しているのではないだろうか、などと考えながら、安藤は車を走らせた。

『デラウェアを使ったワインは、優しい味わいがしますよね。あのぶどうらしい味わいや香りは日本人に合っている、と私などは思うのですが…』

「でも、評価はされないんだよな」

 カーステレオから流れる言葉に、安藤はそう一人で反論した。別にデラウェアで作るワインを否定はしないが、ラブルスカ種のワインなんて、評価はきっとそんなものだ。一般的日本人が好きかどうかより、ワインを評価する連中がどう思うかだろう。

 ワインを飲む層は、フランスも日本も保守的な人間が多い。ヴェニフェラ種と呼ばれるワイン用ぶどうとは違い、デラウェアを始めとする生食用のラブルスカ種は、所詮は食用だ。現実問題としてそこには味以前に感覚としての大きな壁がある。人が今まで信じてきたり当然だと思っている考えを覆すのは、容易なことではない。そうしたホモ・サピエンス特有の性に抵抗するには、よほど切羽詰まった状況が必要だろう、と安藤は思った。

 そのなかなか評価されないぶどうで「高品質なワインを作れ」と言われている、今の自分のように。

 ナビ通りに走ると、ようやく見覚えのある風景が目に入ってきた。年季の入った大きな家屋と、その奥に広がるぶどう畑。古い記憶の通りだが、その横に建てられた、真新しい住宅は初めて見た。きっと、去年結婚した従兄の透が建てたという新築だろう。従兄には申し訳ないが、田んぼとぶどう畑を背景に建っている白い洋風建築の見た目は、周りからひどく浮いているように見えた。昔からあるし、地元に帰ってきてからよく目につくが、古い家の隣にはよくこうした『日本式洋風』とでも呼べるような住宅が建っている。敷地内同居にありがちなスタイルだ。

 こうしたちぐはぐな景観は、フランスやドイツではあり得ない。別に向こうを礼賛する気はないが、日本人は全体主義のわりに街の景観を統一しよう、という流れにはならないのが不思議だった。

 安藤は、真新しい従兄の家と実家の間あたりのスペースに車を停めた。畑で作業している、とさっきLINEの返信が来たから、きっと奥のぶどう畑にいるだろう。

 車の扉を開けると、むせ返るような暑さと湿気が襲ってきた。妹の祥子から借りた車の中は、冷房の効きも良くて快適だったが、外に出た途端にこれだ。夏真っ盛りの、ギラギラした日差しは暴力に等しい。ため息をつきながら、安藤はノロノロとぶどう畑に向かって歩いた。こんな暑さの中でこれから発酵を管理して醸造作業をしなければならならいと思うと、うんざりする。長く働いてきたアルザスは、こんなに湿気は無かった。いろいろと工夫が必要だろう。

 それにしても、この暑さの中で外仕事をしている従兄や叔父叔母には頭が下がる。自分なら一時間も持たないな、と思った。父方の親戚の川田家は、三代続くぶどう農家だ。自宅裏に所有するぶどう畑は、なだらかな丘陵地になっていて、長男である透は本格的に三代目を継いで、ぶどうを栽培していた。昔は巨峰が中心だったが、最近はシャインマスカットとやらが一番多いらしい。

 ぶどうは上の棚部分から下にたくさん垂れ下がり、日光がぶどうの実に直接当たることはない。それどころか、白い袋のようなものが、ぶどう一房ずつに丁寧にかけられていた。あの大きさからして、例のシャインマスカットだろう。日本では近年人気の生食用だと聞いたが、安藤が日本にいたころには、あまり見たことが無かった。棚の上部分には半円上の針金の枠が作られ、上には白っぽいビニールシートがかけられている。

 ヨーロッパではだいたい、一本の木にぶどうがいくつか成っていて、全てが剥き出しの栽培方法が主流だ。慣れとは怖いもので、あれを見慣れていると、慣れ親しんだはずの川田家のぶどう畑が奇異にさえ見えた。

「よう、悟」

 呼ばれて振り向くと、畑からひょっこりと従兄の透が姿を現した。両手には大量のビニールシートの固まりを抱えている。

 川田透は、安藤の二つ上で父方の従兄だ。見覚えある丸顔をした透は、おそらく農作業のせいでかなり日に焼けていた。背は高くないががっしりしたその体格は、中学から始めた柔道と仕事柄だろう。透は目が大きくてまつ毛が長いから、小さな頃は女の子に間違われたこともあったが、いまはそんな面影はない。ゴオオ、と小さなモーター音がしているが、厚めの作業着に小さな扇風機が二つ、後ろ両側について風を送っているようだ。不思議なモーター音の正体は、どうやらそれらしい。なるほど便利なものがあるな、と悟は感心した。この暑い中で作業するには、こうした工夫が必要なのだろう。

「透兄ちゃん、久しぶり」

「おう。祥子ちゃんの車見えたから、いったんビニール剥がし止めてきたんだ」

「そのビニールって、ハウスの上にかぶせるやつ?」

「ああ。デラは収穫終わったからな。今年は暑いから糖度高くて、早めに農協から許可出たんだ」

「…そっか」

 口には出さなかったが、農家がぶどうの収穫時期を自分で決められないことに、安藤は驚いた。昔から付き合いがあるとはいえ、子どもの頃にそんな事情は考えたこともなかった。しかし、収穫一つをとっても、フランスとはやり方が違う。気分を切り替えて行かないと、それこそ自分が日本のやり方についていけなそうだな、と密かに思った。

「デラウェアも、あんな風に袋にいれてるの?」

「袋か?いやあ、しねえよ。うちのデラは加工用だしよ、単価安いからそこまで手はかけてらんねえ」

「ふうん」

「それこそ、うちのデラはマイヤに納めてっからさ。お前がこれからワインにしてくれるんだろ?」

「まあね。その為に帰ってきたし」

「たいしたモンだ。楽しみだな」

 安藤が日本に帰ることを各SNSで流して、勤め先を募集したとき、真っ先に名乗りをあげたのは、マイヤワイナリーだった。しかもそこは、安藤の実家が手放して譲渡した酒造免許でワイン製造と販売を行っている所だ。既に関係は無いとはいえ、なかなか皮肉が効いている。

 少々面食らったが、その後受けたオファーの中では、条件的には一番良かった。仕事を選ぶのも面倒に思えた安藤は、それで地元に戻ることを決めたのだ。
 透はビニールシートを片付けながらは「暑いから中入るか」と安藤を促した。あの白い新居の方では無く、実家の古い家屋の方に、二人で夏の日差しから避難した。叔父叔母は、今は用事で出かけていていないらしく、昼には戻ってくるだろう、と透は言っていた。奥さんは、また別に違う勤め先があるらしかった。昔ながらの居間は、縁側の扉が網戸を残して開けられていた。風通しは良さそうだが、残念ながらいまは風そのものが今はない。透はそれらをしっかり閉めてから、エアコンのスイッチを入れた。 透が冷蔵庫から麦茶を持って来てくれる間に、エアコンが音を立ててフル稼働した。顔に滴る汗を拭っている間に、冷たい風が出始めた。思わずため息が出るくらい、気持ちがいい。 エアコンの風量がどんどん上がり、下がっていた鉄製の風鈴が人工の風に押されて僅かに「チリン」と鳴った。 あの風鈴も昔から川田家にあるが、本来の用途から程遠いな、と安藤は思った。しかし、風鈴がエアコンで鳴るしかないくらい、いまの日本の夏は暑いのだ。まるで熱帯気候だ。

「ほれ」

「ありがとう、透にいちゃん」

「何年振りかなあ。お前の母さんの葬式の時からだから、五年振りか」

「そんなになるっけ?」

「ああ。早いよなあ」

 あまり感慨深い、とは思えないのは親不孝なのだろうか。だが、それならそれで仕方ないような気がする。そして、同時にアルザスにすぐ戻ろうとしたときには祥子に恨み言を言われたのを、安藤は思い出した。

『冷たい』

『自分勝手』

『親不孝の人でなし』

 まあ、祥子は母に似て穏やかとは程遠い性格だから、むしろあれくらいの罵声で済んだのは意外なくらいだ。

 渡された冷たい麦茶は、一口飲むとさらに体に沁みた。よく考えたら、麦茶なんて何年振りだろうか。当たり前だが、フランスには無かった。 安藤は、透が結婚してあの白い新築を建てて敷地内同居にいたるまでの近況を聞きながら、ひどく懐かしく、安堵した気分に浸っていた。 綺麗好きの叔母によってしっかり掃除された居間は、昔と何ら変わっていない。細かい家具は代替わりしていたが、年代物の大きな茶箪笥はそのままだし、それには透と安藤が小さな頃にイタズラして付けた傷がそのまま付いてある。ただ、あの時は二人とも叔母に叱られた。 ここは、安藤の実家より、よほど安心感がある。 実家に居づらくなったとき、安藤は父の実家であるここによく来ていた。川田家は、思春期の逃げ場にしていたくらいには安心できる場所だった。
 今の安藤家は、祥子が婿をとってかなり改築した。今や小さな姪っ子甥っ子達が騒がしいあの家は、昔の面影がいっさい無い。そこに感慨深いなんか別に無いが、今のあの家に自分の居場所が全く無いのも事実だ。

「んでさ、お前いつからマイヤで働くんだ?」

 麦茶の追加を出しながら、透はそう聞いてきた。実は帰ってきてすぐ『いつまでもいい歳してプラプラしないわよね?いつから働くの?』と妹の祥子から同じことを聞かれた。別にいつまでも無職生活を謳歌する気は無かったが、祖国は働かざる者には厳しい。

「来週からまず見学に行くよ。デラウェアの仕込みが始まる頃には本格的に働くから、さっきも言ったけど、今年の新酒には関われるんじゃないかな」

「そっかあ。じゃあ黒田の息子ともすぐ顔合わせるな」

「…黒田?」

「磐だよ、あの黒田磐。高校同じで、昔よくつるんでただろ、お前ら」

「ばん…、ああ。アイツね」

「マイヤはさ、あいつの親父さんが県と市から買取っただろ?で、東京から呼び戻して跡継ぎにするって話だぜ。黒田グループ継ぐんだろうな、あいつ。若いのに大変そうだな、あの社長厳しいってよく聞くし」

 つるんでた、という透の言葉に、周りからはそう見えていたんだな、と安藤は他人事のように思った。

 彼の実家、黒田家は県内一帯に展開している飲食チェーン店と、いくつもの賃貸物件を所有する地元の名士だ。おそらく、県内有数の大金持ちでもある。安藤のことをスカウトしてきたのも、黒田磐の父親だ。

 元々は不動産主体だった黒田家の事業に、飲食チェーン店を展開し、更に大儲けしたやり手の経営者だ。偏屈で厳しいと評判だが、安藤の個人的な印象は、さほど悪くない。少なくとも安藤をスカウトしてきたときは、高圧的でもなく愛想も良かった。

「磐って…東京で何してんだ?」

「なんか、有名な東京のホテルでソムリエやってたんだと。幸三伯父さんがな、その店に行ったことあるって言ってたな。黒田の息子が働いてた、て教えてくれた」

 川田幸三は、この川田家の三男で、透と安藤の父達の弟だ。昔アメリカに行ってバンドをやっていたらしいが、その時ファンだったとからいう資産家の娘と上手く結婚し、その財産で悠々自適な生活を送っている自由人である。一度、フランスにも来てくれた。たまにしか会わないが、安藤としては好きな叔父だった。

「ふうん。ソムリエね」

 高校のとき、屋上で昼休みにこっそりタバコを吸っていると、彼はよくそこに来た。最初はたまたま居合わせだけだが、何故か彼は勝手にいつも来るようになったのだ。安藤はかったるい授業もそこでサボったりしていたが、黒田磐は真面目を絵に書いたような奴で、来るのは昼休みだけだった。それだけの関係が変わったのは、ワイナリーの一般向けの収穫醸造体験に一緒に行ってからだ。

 安藤家が、まだ自分たちでワイナリーを所有していたころの話で、当時社長だった母に言われて渋々参加して、高校の頃に手伝ったのだ。黒田磐はそこに参加してから、安藤の自宅にまで来るようになった。ぶどうの種類や、醸造の方法やその他、とにかくそこでワインに興味が湧いたらしい。高校の屋上や自宅で、彼がしつこく聞くので、安藤は知ってる限りのことを教えてやった。その時に確か、黒田磐に彼の名前「ばん」がフランス語でワインと言う名前だったと教えてやったことを、安藤は唐突に思い出した。あの時、彼はやけに興奮していた気がする。運命みたいだ、とかなんとか言っていたように思う。あの情熱のまま、大人になって黒田磐はワインの道に進んだということだろうか。

「祥子ちゃん、黒田の息子と同級生だから詳しいだろ。聞いてみろ」

 曖昧な返事をしながら、安藤は、黒田磐の性格のことも思い出した。父親よりも、むしろあいつの方が偏屈というか融通が効かない性格だったように思う。あんなヤツに接客業など出来るんだろうか、と思いながら安藤は麦茶を啜った。

「昔の後輩が上司になるんか。頑張れよ、悟」

「ん、うん…」

 透は心配、というか同情しているようだが、ビジネス上の上司が歳下でも、安藤は別に何とも思わない。それよりも、安藤としてはあの黒田磐が上司、というかビジネスパートナーのような位置に来るというのが、どう捉えていいか分からない事象だったのだ。


『逃げるんですか?』


 高校生の分際で黒田磐が言い放った言葉を、安藤は未だに覚えていた。こっちの苦労や気持ちも知らないで、勝手なヤツだと思った。

 本人はきっともう忘れているだろうが、言われた方はしっかりと覚えている。図星過ぎて、同時はひどく傷ついたからだ。

 確かに、安藤はこの地から逃げ出した。あの頃、この地元だけが安藤の全てだった。そして、ここは窮屈で居心地が悪くてたまらなかったし、あの激しい母からも自分に無関心な父からも、逃げ出したくて仕方なかった。見栄っ張りな母は、安藤が留学したい、と言うとすぐに金を出してくれた。海外で修行した息子がワイナリーを継いでくれることを、夢見ていたに違いない。けれど、安藤にはそんな気は一切無かった。醸造を勉強するから海外の大学に行く、と言うのは、とにかく逃げ出すためには、いい口実だった。

 日本に帰るつもりは、本当は無かった。ワイナリーを手放したと聞いて、妹の祥子のことは心残りだったが、アルザスでもドイツでも、どこでもいいから、どこか遠く故郷から離れたところに骨を埋める気だった。ワインの仕事は、そのための手段にに過ぎない。

 けれど、安藤は帰ってきた。こんな男の人生を見て、黒田磐は、何と思うのだろう。

 チリン、とエアコンの風でまた風鈴が鳴った。人工の風で鳴り響く音が、安藤には自分の人生と同じく。

 ひどく滑稽なものに思えた。

いいなと思ったら応援しよう!