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【記憶】能登半島地震ボランティアを通して

2025年に入りだんだん寒くなってきた。皆様、新年はいかが過ごしただろうか。ただ、こんな寒い中も、大変な状況に置かれている方達がいることを忘れては行けない。能登半島の方々だ。
能登半島地震から1年経つ今、「私の視点で」私が行った災害ボランティアを振り返ってみたい。


2024.1.1

辛い場面がニュースで流れた。
四時ほどだろうか。昼食に家族で外食をし、家に帰ってきてすぐ、家がぐらぐらっと揺れた。
私は、普段から東日本大震災の動画をYouTubeで見ていた。それは当時私が幼すぎて何もできなかった無力さを痛感し、悔しかった故である。そのため、今度大きな地震が来たら、私が動かねばと常々肝に銘じていた。そして1月1日16:10、東京でこの大きさはまずいと瞬時に思った。テレビをつれるとNHKが速報に切り替える所であった。

震源は能登半島

津波は、津波は大丈夫なのか。ずっと背筋が凍った。そして泣きそうになっていたと同時に、今回は動く。心に決めた。親にその晩だろうか、私の意思を伝えると、

「お前ごときが行って何になるのだ。」

「ふざけるな。学校はどうするんだ」 
「まだ余震があるぞ」
悔しかった。確かにそうだ。今は自衛隊だろう.ただこの言い訳をずっと使われてまた無力なまま能登へのボランティアができないのではないか。それから1ヶ月おきくらいに私は

親と喧嘩になりながら交渉

をした。

そして、春休みに入った。今しかない。
「学校」の言い訳はもう使えない。余震もほぼない。

天皇陛下も能登入り

している。これは私が親を説き伏せるのに十分ではなかったが強行するには十分であった。
(3月はずっと42tokyoというプログラミング教室の1ヶ月の試験を受けており、行けなかったなが、LINEで県から届くボランティア案内に目を通したりどのくらいの速さで申し込み終了するのかを見ていたりした)
親は以前と、「もし行くなら自腹で行け。」

行く前日に書いた借用書のテンプレ


確かに当然なことではあったが、僕は理不尽すぎると思っていた。そして強行で4月に入りすぐに応募をして(見事な)日程を確保した。ちなみに応募時には激戦で約5分以内にはほとんどのボランティア枠定員が埋まっていた。
1日目 夜 金沢入り
2日目 早朝 金沢市発→七尾市入り→金沢駅
3日目 早朝 金沢駅発→穴水町キャンプ入り   
       →珠洲市→穴水町キャンプ
4日目 早朝 穴水町キャンプ→珠洲市→金沢駅

この

非効率的な日程

は県が要請するボランティア活動に則ったものであるが、非常に憤りを覚えた。ただ当時はまだ穴水町キャンプができたばかりであったし、七尾市の野外キャンプ設営完成したくらいの時でもあったのは確かである。

この日程を詳しく1日目から振り返ってみたい。

1日目(3/31)

・6:30 /集合場所到着

金沢市内の公園到着
この公園も金沢駅から車で約20分かかる非常に交通の便が悪い所であった。早朝であるし、自転車かタクシーのみであった。このボランティア日程のグダグダがこういう所にも現れていると後から思えば感じる。

集合場所の公園から見える日本海

・7:00~10:00/バス移動

バスが公園から出発し、ゆっくりと道を進んでいく。ボランティアの人たちの中には、いろんな人がいる。おじさんたちがほとんどであるが、母親と子で参加している人も1組いた。また、おじさまの中でも威張ってガイドの人に色々指図する人や、丁寧な方、僕と同世代の息子がいらっしゃる方などがいた。行きのバスの中では、僕は多少の疲れもあったので寝ながら過ごしていた。
ちなみに目が覚めると時々、僕が昔やっていた戦後時代のゲーム

にて近くにお城があるのかをチェックしていたり、Googleマップでどこにいるのかを確認したり、LINEニュースで流れてきた能登半島地震ボランティアについて調べたりしていた。

「合戦-戦国絵巻-」というかなりマニアックな戦国ゲーム
武将やマップなどは当時の屏風から切り取られている。
かなりバスで進んだあたりのスクリーンショット。
珠洲市について調べたりしていた。
ボランティア活動が進んでいないとのこと。実際に肌でそれを数時間後には感じる。


・10:30-15:00/七尾市活動

おそらく10:30くらいに活動開始。各8人くらいで一つの班を作り、指定されたお家に出向き活動を開始する。

七尾市の被害

はそこまで甚大ではなかった。なので、作業といえば、家の中で倒れた家具などを撤去するものであった。しかしながら、半分くらいが恐らくは
震災によって生まれた廃棄物ではなく、元々廃棄予定だったものを僕たちが捨てている感じであった。本当はこんなことをしに来たのではない。と多少の

憤り

を覚えつつ、作業を進めた。2件目の予定終了物件までは、無難に「廃棄物業者」を行っていた。まあ流れとしては、お宅に出向き、廃棄物を受け取り、それを仮の仮の廃棄物センターに持っていくのだ。みんなはそこを

「カリカリ」

と呼び、廃棄物の仕分けなどを行う。しかし仮の仮の廃棄物処理場ってなんや都は思ったし、もっとうまいことできないのかなあと。さらにひどいのは、廃棄物の中に廃棄不可のもの(災害廃棄物でないもの=一般ごみなど)があればそれは訪問宅まで戻しに行かないといけないので相当の無駄が生じていたし、実際にほとんどのお宅でそういう状況が生まれていた。ここにも少しの無意味さを痛感しながら活動を進めていた。しかし、救いであったのは、ちょうど三月の最終日でサクラの季節でもあり、ところどころに

満開の桜

が咲き誇っていた。私の心をいやすには十分であったし、被災者の方々の心もさぞかし癒されたことだろう。桜の威力には敬服である。

桜並木と自分のボランティア服


そんなこんなで二件目まで終わった状態に、無線にて、応援のお願いが飛んできた。私とペアのおじさんは、集合時間まで時間があり応援の現場に近いことから向かうことを決めた。
ちなみに、活動はペアのおじさんの軽自動車を使用して、七尾市内を駆け巡ったのである。僕は軽自動車に乗るのは人生で初めてで、なんか人馬一体なのかなwww快適とは言えないけど楽しかった。
おじさんはとても良い人で、愛知県?らへんにある限界集落から来られたということだった。色んな話が出来て楽しかった。

使用した軽自動車とまだ被害のある道路
被害は少ないといえ、道には震災の爪痕が

そんなこんなで、3件目のお宅に着くと、七尾市では最大級の被害を受けておられた。おうちは、とても歴史のある家というのがすぐにわかるような風貌で、とても大きく立派であった。この大きな倉はかなり大きくて何が中にあるのかがすごく気になった。

被害のあった大きな倉

違う側面から見るとさらに倉の被害が見られる。このようにたくさんの大きな廃材や瓦礫の撤去作業にかなりの労力と人員が割かれていた。倉以外にも壁がはがれてしまっていたり、大きな今の部分がごちゃごちゃになったりしていた。

倉の壁面
ところどころ壁が割れている。

この家では最終的に約20人程度で作業をし、廃材置き場とを往来した。そしてかなりの体力を消耗し、家から少し離れてみると、とてものどかできれいな景色が広がっていた。震災がなければもしかしたら一生に一度に来なかったかもしれないが、これも運命なのだろう。心が癒された。桜もそうだが、何かつらい時や心休まらないときは一回落ち着いて周りを見てみると全く別の世界が見えるかもしれない。

のどかな風景

これは、どんな状況でもそうなのだろう。一見大変で孤独で、辛いと感じる時も少し離れてみると、全く別の景色が見えたりするものだ。1日目はこのお宅を最後に僕たちの仕事は終わった。

帰りの道でもこのような地震の爪痕が残っている。

七尾市から帰る高速から見えた土砂降れ

帰りは、お隣のおじさま方とお話しした。2人ともお仕事の合間を練って来られたとのことだ。とても素敵であった。また、もう1人富山から来られている方と知り合えて、バスの終点地点である、金沢駅から車で15分くらいの場所から金沢駅までその方の車で送っていただいた。大変に温かみのある人たちが多かった。このように

新しい素敵な出会いもあった。

そして自分もホテルに戻りゆっくりした。

2日目

今日からは、七尾市のさらに奥珠洲市に入る。
珠洲市は最も被害の大きかったところなのでもしかしたら知っている方も多いのではないか。珠洲市は、先のマップでも記したように能登半島の最北端である。七尾市の被害があまりひどくなかったことから、珠洲市もそこまで被害が酷くないのではないのか.とこの時は考えていた。
金沢に朝の8時に集合してからまたバスで向かう.七尾市あたりを超えると全壊した建物も多くなっていた。

道中、全壊した建物が何件かあった


途中で休憩しながら廃校になった学校の校舎キャンプに向かう。そんな中廃校のキャンプについて荷物を下ろす時に、体育館の壁にとても大きな字で「恩送り」と書いてあった。今思い出しても泣きそうだ。自分たちは本当に辛い思いをしたにも関わらず、このような粋な出迎えをしてくれる。本当に感動をした。テントは1人分にしては充分なほど大きかった。

キャンプ地の体育館に掲げられていた


キャンプオン様子
廃坑からの景色。海が目の前


キャンプに荷物を置いたら支給される防災グッズを片手に班に分かれて作業などをする。珠洲市は前日の七尾市と打って変わったように違った。まず廃校付近の道路でも被害確認ができた。かなりひどい。そしてキャンプを後にしてさらに1時間弱かけて珠洲市の本部に向かった。本部に着くと一通りの説明を受ける。説明では、「人手は足りている」と言っていた。何を言っているのかわからなかった。本部の周りには全壊した建物ばかりで、半壊の方が珍しいくらいであった。僕が入ったのが4月だから4ヶ月間でほとんど復興は進んでないように写ったが、人では足りている.と言う。そんなモヤモヤを抱きながら、活動を始めた。被害は酷かった。


津波による土砂が流れてもいた。そこら中に建物の下敷きになった車があった。道は、割れたり、マンホールが膨れ上がったりしていた。お宅に着くと、そこは海岸付近のお寺であった。そこには、福井県など近隣の県からの応援で駆けつけていた部隊もいた。また、建物の後ろ側は土砂崩れでひどい状況に立たされていた。建物内もあらゆるものが散らかり壊れていた。屋根が吹っ飛んだことにより雨漏りもできており、畳が雨に濡らされて腐っていた。畳が水分を含み、運ぶ時はおそらく30-50kgくらいの負荷であった。壁から撮れてしまった本瓦も一つ一つがとても重かった。

その様な悲惨な被害をこおむったにもかかわらず、持ち主の方たちはとても優しく丁寧に応接してくれた。4か月もこの様な状況だったし、恐らく全部が復旧するにはかなりの年月がかかるだろうと思うと非常に心が苦しくなった。実際に、おそらく総勢20人くらいで何時間か作業したが、少しの進展しかなかった事を覚えている。また、私達の様な素人が扱えるこの家は恐らく、被害はそこまでひどいものではないとも考えられる。それを踏まえてもこのような甚大な被害がある家がホントに多くあるにも関わらず、人手が足りているというのはどういうことなのだろうか。なおさら、むしゃくしゃした。

ボランティアした自宅のすぐ後ろ。
部屋の中
自身で隆起したのか、海岸がかなり広くなっていた。

その後も、珠洲市や輪島市などを行き来したが、その道中もかなり酷い被害を目撃した。下記の通りに、土砂崩れを起こしているところや、道路がかなり壊れてしまっていた。もちろん、震災から4か月は経過していたため、道路には別の通り道やポールなどが建てられてたが、復旧にはまったくいたってなかった。そして、この家で発生した廃棄物をまたカリカリに運搬する。

土砂崩れを起こして道をふさいでいた


さらには、家屋もかなりの被害を受けていて、七尾市と比べるとその被害の大きさが実感できた。ほとんどの家屋は潰れて、車などが下敷きにされていたり、ほとんど全壊した建物も多くあった。逆に復旧していた家は全くなく、家の状態を示す紙が各家に貼られているのみであった。

ぺちゃんこになった車と自宅
このような家を横目かなり非効率に分散した各家の作業に回った。

一日目の最後の活動として、災害ごみの運搬があった。しかし、下記の図のように、珠洲市の災害ごみ置き場は全部で三つしかなく、さらに多くの被害のあった家からはかなり離れていたので非常に多くの時間を災害ごみの運搬に有していた。また、基本的には作業は軽トラで行うので積載量も少なく、何回も遠く離れた災害ごみ置き場を行き来していた。その道中や災害ごみ置き場付近にも多くの倒壊した家が立ち並んでいた。ここにも非効率的な要素を見た気がした。また、災害ごみ置き場にある建物も異常な壊れ方をしていたし、、道もひどく損壊していた。

災害ごみ置き場付近の建物

2日目夜

作業が終わり、再度キャンプに戻った。廃校は非常に寒くストーブなどが置かれた部屋があるものの、テントの張ってある体育館などは暖房装置などはなかった。私は、冷えきったお弁当や支給されているお菓子、カップ麺などを食べて腹を蓄えて寝た。東日本大震災の際は、これよりも酷い段ボールでの生活を長くしていたと聞くから、どれだけそれが悲惨で辛いことかが少し想像できた。

3日目

朝起きて、トイレや歯磨きなどを終わらせた。海に囲まれて空気が澄んでおり非常に清々しい朝であった。
二日目も、作業を始めたが、これまたお寺であった。お寺の本堂などはかなりひどい状況で、素人には復旧不可能であった。その為、倒壊した壁や、多くの瓦の片づけに追われた。それでも、かなりしんどく、元々一か所に整えられたコンクリートの壁や瓦を運搬するだけでかなりの時間を要した。この作業は人手と車さえあれば解決するにも関わらず、その両者が無いのだ。非常に悔しい時間になった。

全壊したお寺
作業したお寺の近くの家々

また、道の状態も相変わらずひどい状態であった。下のようにほとんどのマンホールが、浮き上がっており、道をふさいだりしていた。さらに、電信柱もすべて傾いていた。

災害ごみへの道の電信柱はすべて傾いていた。

今回のお宅は、ごみ置き場と近かったので何回もトラックで行き来をしながら作業を進めた。ごみ置き場からの帰り道は、トラックの荷台に乗るなどをして普段味わえない経験をした。正直軽トラに乗ったのも初めてだったが、荷台に乗れたのは、楽しかった。

災害ごみを搬送し終わったあとは、軽トラの荷台に。


まとめ

今回のボランティアは、私のこれまでの災害時の無力さから絶対に参加すると志したものであった。ただ、その反面、実際にボランティアを行うとその非効率的、もしくはビジネス体験的なボランティアの実態を思い知った。現地へのバス会社などは、無給でやっていただきたいところだが、おそらくそうではないし、人員が割かれるべきところに割かれていないような印象を強く受けた。また、今回は参加前から勝手にボランティアに行く人への風当たりが強かったが、現地の人がそれを待ち望んでいるし、恐らくそれの方が復興の力になっているのだろうと思う。実際に人手は足りていないのなく、運営が多くの人を抱えるキャパを活かせていないのではないかと思う。実際応募時には、約1分で募集定員が埋まるほどにボランティア要員の供給はあったのだ。このような、非常に残念な結果もあったが、もちろんボランティアで手伝わせていただいた家の方は非常に明るい顔をされていたし多くの感謝を頂いた。また、軽トラの荷台にのったり、軽トラに物を積載する際のロープの結びからなど多くの新しい経験もさせていただいた。
私は今後どのような形であろうとも、ボランティアには参加し続けたい。それは、困っている人がいたら絶対に助けるという私の信念があるからだ。さらには、その時に余裕のあるものが余裕のないものを助けるというのはいたって普通だと思うし、その責任がある。特に天災は、誰も悪くないのだから。
とにかく、これからもそういう気持ちでありたいし、もっと深くより良い支援をできる資本を獲得したい。そうすれば、自分が精いっぱいにより多くの人を助けられると信じている。

また余談だが、本記事は書き始めてから非常に長い時間をかけてしまったために、日本語がおかしいと思う。これまでもそのようなNOTEが数多くあるがご容赦頂きたい。さらには、ボランティアに参加してからかなりの月日が流れて記憶があいまいなところがあった。


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