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#20 教育現場への哲学の導入について③ー制作の哲学、世界との交感

前2回まで書いてみたことのケリを付けないといけないと思って、この3回目。3は完だから。
もう少し気軽に書いてみようと思ったけれど、大好きなセロニアスモンクをテレビに繋いだオーディオから流すために、テレビの入力機換えをセットしたときにCDが入ったままのブルーレイプレイヤーがカチっとリアルな音を出す。こういう一連の動作で久々に聴いたカチッというリアルな音が、着たこともない潜水服の首元をしっかりと僕自身が慣れた手つきで締めた感じがした。なぜか書くことが潜ることと重なっていたことに気が付く。書いている時、息を止めているから、僕の文章は一文がどうしても長くなっているんだろう。いつも無理がある。

前回の2回目の終わりで、自分は哲学の破壊力について書いていたはず。昔から破壊、ぶち壊す経験が大好きだった。リセットに近いのかもしれないが、あると思っていたものがない、あるいはその逆、黒だったものが白、そんな体験にいつもワクワクした。ファッションでもそうした反転、逆転した組み合わせ方をすることが大好きだった。僕が高校生の頃に哲学に偶然触れて惹かれたのもその破壊力だった。周りの友人たちがパンクだロックだと得意気に語るのを小馬鹿にしながら、僕はよっぽどジャズや哲学の方が根本的な破壊力があると信じていたし、今でもそうだ。たった一人の人間が、意図せずに世界を破壊してしまうようなフレーズを紡いでしまう断片が大好きだった。今思うと、その秘密を解き明かしたいと精神分析を学ぶ道に進んだんだと思う。アートの文脈で語られるものには破壊力をなぜか感じなかった。それよりも、言葉と音楽でそれがなされる瞬間だけが生きている実感を与えてくれた。
でもやはり、ウェイン・ショーターの作編曲能力のように、壊していると見えるのは第三者の評価であって、当の本人は構成し、積み重ねているつもりなんじゃないかと思うようになった。本人にとっては何の飛躍もなく至極当然の行為、生産、創造、制作などそういったものが社会に影響を与えているというのは第三者からの願いに過ぎない。そんな社会をどうこうというレベルの話ではなく、人が何かをつくる時は、一瞬前の自己とそれを支える世界の両者をまるごと壊しているんじゃないかと思う。つくった本人は、第三者からどんな評価をされようが、当の本人も意図せずして本人と世界の関係を変えてしまっているんだろうと思う。
世界との関係といったのは、その個人の世界との関わり方、交感であって、その人の世界そのものを壊すわけではないだろう。それはきっと歴史と言い換えられる。それまでは社会的紐帯などにおいて無意味とされていた事柄が実はその人の世界とのタッチポイントであり、交感そのものであるような事柄が哲学の破壊力によって顕になってくるのではないかと思う。

また長くなってしまったから駆け足で。つくることは自己破壊なんじゃないかということ。千葉雅也氏は、勉強を自己破壊と言っていたが、僕はそれにつくることを加えたい。氏の勉強の意味にも実はつくることが多分に含まれている、というよりも一般的にはアウトプットと勉強は分けられているが、氏の場合はそうではないので、詳しくは『勉強の哲学』を読んでほしい。
でも、僕はつくることの側面をもっと強調したい。それには、現状のデジタルの力や、デザインの手法、人類学のアプローチなどは非常に有効だと思う。
もっとも自己破壊力のある哲学という分野が、自分自身を形成してきた世界、歴史にまでその破壊力を及ぶところまで研究や対話、テキスト読解をしつつ、その中盤からひたすらにつくること、どんなメディアや対象、デバイスも問わずに毎日数時間作ることを数ヶ月、例えば3ヶ月など続けること。その2つのプロセスをはっきりした時間的な区切り、期限で打ち切り振り返る。振り返りの中心にあるのはあくまで作品にすること。プロセスの分析はその次でなければ、よくあるワークショップの「振り返り」と同じになってしまうので、作品それ自体を批評することを通して振り返ることができれば良いと思う。

今回も前置きと脱線が長くなってしまったが、まあこんなもんだろう。水中の息もそろそろ苦しくなってきたので、一旦は陸に上がってからこの続きは書いてみる。軸となるアイデアは書いてみたので、これの具体的な例、プロセスを整理して次回描いてみようと思う。3回で終わらせることができなかったけれど、粗くて脆い素地、下地はできた気がする。

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