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13日目: 学びの共同体ー岸政彦のジャズ評論『方法の共同体』からの雑談

昨日、友人とzoomで話した内容が面白かったのでその会話の要約をしてみようと思った。
自分と友人とは、音楽が好きで、教育に関心があるという共通点がある。

A:Hiphopの生誕50年 が話題になってるけど、それを特集したNew York Times magazineの最新号の表紙がめっちゃかっこいいんだよね。見た?

B:それ知らなかった、めっちゃいいね、これ! 最近、Nikeばっかだけど若いときはadidas一辺倒だったもんなあ。うーん、またadidas欲しくなるね。って、ミーハーすぎてごめん。ヒップホップを「アートフォーム」って言い切ってるのもいい、黒人の何たらとか今だったら簡単にポリティカルなラベルを付けちゃいそうなのに。アートフォームっていうことで、黒人に固有のなんたらとかいう話ではなく、開かれている感じがする。

A:ああ、確かに。それでいうと、結構前に読んだ岸政彦の『方法の共同体』っていう評論がもろにそんな話だったよ。ジャズがいかに個人が自らやってみたところから始まったか。つまり、チャーリー・パーカーとかね。しかも、それが誰も理解できない私的言語じゃなくて、誰もが真似できるものとして展開されているところ。その奇跡のような共同体がジャズなんじゃないか、っていうような話。サイコーだな、って思ってさ。個人が勝手にやったその方法が開かれる共同体ってもう奇跡だよなと。

B:まあ分かるようなわからないような…パーカーって実は聞いた事ないからどれだけすごいかってイマイチなんだけど、とりあえずなんかそういうすげー天才から始まったって言えば、まあロックとかだってそう言える気がするんだけど違うのかな。

A:まあ、ファンクとかHipHopだって始まりは確かにそんなもんだろうけど、誰もがその方法を真似することができる、ってすごくない?

B:完コピなんかはどんなジャンルだってできるんじゃない?

A:あ、そういう意味じゃなくてさ。ジャズは即興演奏がコアなんだけど、それって一番私的なもの、その人にしかできない即興演奏じゃない。上手い下手問わず。「ジャンルとしてのジャズを真似してそれっぽい音を出そうと懸命になる私たちの指や喉はそのつど、ジャズというジャンルをその場でつくりあげている」って岸政彦は説明してるんだけど。ジャズって基本的に、スタンダード曲っていうデータベースがあって、みんな大体同じ曲をやるんだけど即興演奏ってやり方でその人の解釈が表現される。でもその即興演奏でさえ、パーカーやバド・パウエルなんかの天才が個人的に演奏したフレーズやリズムに基づいたお作法がある。じゃあ、みんな同じ即興演奏になるのかっていうと、どうしてもそうならない部分が出てきてしまうっていうのがミソで。岸政彦曰く、「演奏家は、天才たちが生み出したこれらの『ジャズの方法』をもとに、無限に新しいメロディーを演奏することができる」。この時間と空間を超えたうねりのようなことが奇跡だなって思うんだけど、分かる?それを「ジャズ=方法の共同体」って定義はもう目から鱗だったんだけど。

B:うん、なんとなく分かってきた。そういうことであれば、Hiphopってどうなんだろうね。ジャズとはかなり類縁関係にあると思うんだけど。

A:自分が昔ジャズやってた時の先輩は「ジャズとブルースが夫婦、その中でブルースっていう母親に似たのがロックっていう子ども。ちょうどどちらにも似た子どもがファンク、それでジャズっていう父親に似たのがヒップホップって」言ってて、妙に説得力あって根拠がないながらも納得してたな。ヒップホップはラップっていう形での即興要素がかなりあるとは思うけど、どうなんだろうね。ジャズのようなスタンダード曲っていうのがない感じがするからそこは大きな違いかも。
あんまりヒップホップに詳しいわけではないから自信ないけど、ヒップホップってもっと直接的に政治や環境、その中での己の主体について表現している気がするんだよね。ジャズってあくまでスタンダード曲なんかを通しての解釈を提示することで自分を表現しているけど、ヒップホップの場合はサンプリングっていう形はありながらもジャズのそれとはだいぶ違うだろうから。

B:話していて思い出したけど、矢野利裕さんっていう学校の先生が書いたヒップホップについての評論をnoteで公開しているんだけど、そこにちょうど共同体っていうキーワードが出ていたの思い出した。
ヒップホップはいかにしてそうなるのか――空虚な主体による表現として4/4|矢野利裕 (note.com)
これかなり長いんだけどね。これ読んだときのヒップホップの共同体って<身振り>に集約されると言いつつも、印象としてはジェームス・ブラウンだったり、ある特定の誰かの<身振り>をサンプリングとか何やらっていうやり方で反復する、そんな形で参入していくようなものって俺は理解したのね。だから、ジャズとヒップホップの共同体の違いってそこにありそうだなって思う。それはジャズとヒップホップの違いにも深く関わっていそうな気がする。

A:それ面白いね。ヒップホップはスタンダードがない分、もっと直接的に自分のメッセージなどをライムするから直球で自分の表現をする分野なのかな。

B:いや、単純にそうは言い切れなくて。むしろ、矢野さんのこっちの記事だと、ラップはむしろフローがありきで予め言いたいことが決まっているわけでもないっていう話があってね。104人のラッパーを調査したラップの技術をまとめたポール・エドワーズを引用しながら矢野さんはこんな感じで説してた。

ライミングとは、詩的言語を次々と組織化するのだ。したがって、最初の一語さえ発してしまえば、「その言葉にライムする言葉を考え」(ターマノロジー)「それから、それらの言葉を使って文を組み立て」(フレドロ・スター)れば良いのである。いや、最初の一語さえいらないかもしれない。いつか聴いた、あのラップのフロウさえあれば。ノリエガは「フロウだけがあって、言葉はまだないことはよくある」と、タジャイは「俺はよくスキャットで骨組みを作って、言葉を埋めていく」と答えている。

ヒップホップはいかにしてそうなるのか――空虚な主体による表現として3/4

だから、「ヒップホップにはメッセージがある」っていう見方もそう単純ではないと思う。それを矢野さんは「空虚な主体」って言うんだけどね。

A:なんだかポストモダン感が出てきたな(笑)

B:実際、ポストモダンの視点や話は結構出てくるよ。で、結論部で言ってることなんかが岸政彦のいう方法の共同体とかなり近いものがあるんだよね。

ヒップホップの、この保守的な態度は、どこまでも退屈な僕にとって、実は大きな意味を持っていたのではないか。なぜか、ヒップホップはパンクと並列されがちだ、あるいは、テクノと並列されがちだ。僕は全然違う、と思うのである。ヒップホップは、決められたことを〈反復〉する。どんなに切迫したときでも、ルールをぎりぎり守る。リスペクトして見習う。他人のお手本になる。とても抑圧的な学校のようだ。僕の好きなKRSワンは、自らを「teacher」とし、「edu-tainment」と言っていた(KRSワン「Edutainment」)。クール・ハークは「他人の手本(ロール・モデル)になれ」と言っていた。教員をやって理解したことがある。僕自身は、学校の授業の約束事の多さにはうんざりしていた。とくに国語が得意だったので、教師が提示するルールは不自由な枷としか思わなかった。教員になって、このルールは国語が苦手な生徒に向けられていたのだな、と気付いた。やっと気付いた。規律訓練、均質化――もちろん、過剰なものは批判されるべきだが、一方で、なるほど約束事の上に全員が開かれている、と思った。ヒップホップは、ルールをぎりぎり守る。保守的だが、ルールというのは、それさえ守れば誰もが参入できるものである。持つ者も持たざる者も。ルールをぎりぎり守るというのは、ヒップホップを、そうした誰でも参入できる場所として開いておくことなのではないか。学校的な価値観から逸脱することもできず、あまつさえ教員にまでなってしまった僕は、だからこそ、ヒップホップにどうしようもなく魅了されるときがある。

ヒップホップはいかにしてそうなるのか――空虚な主体による表現として4/4

このルールっていう話と共同体のくだりはかなり近くない?

A:うん、これ読むとかなり近いなと思う。ジャズの場合はルールが破るためにあるような感じがあるんだけど、もちろんただ逸脱すればいいんじゃなくて、どうクールに逸脱するかがアドリブの醍醐味だったりするからそうした微妙なスタンスの違いがあるかもしれない。ヒップホップの場合ももちろんただルールに従っているんじゃないだろうけど。でも<反復>ってなんか俺の場合は精神分析を思い出すわ。まあ、ポストモダンなんかでも使われる用語ではあるけど。ヒップホップの<反復>は確かにわかりやすい。ジャズも反復はあるけど、フレーズや演奏レベルのそれもあるけど、むしろジャズそのものがスタンダード曲っていうものの反復って言えそうな気がする。アドリブも、過去の天才たちの編み出した方法の反復でもあるから。
それにしても、これ学校の先生が書いたっていうのが面白いなあ。こんな観点で国語の授業、音楽の話なんか聞いたらめちゃくちゃ面白い授業なんだろうな。

B:矢野さんの著書の『学校するからだ』も読んだけど、本当にこんな視点で描かれた学校のあれやこれやの出来事が面白すぎた。本当、「学校する」っていうか、「学校してしまう身体」の実体験を描いてるんだけどね。

A:教育、学びの分野もさっきまで話してきた共同体の観点はすごく重要な気がするね。千葉雅也さんが前にTwitterで呟いてた教育の定義がこれなんだけどさ。

だとすればだよ、ここまで話してきたジャズにおける逸脱するためのルールも、ヒップホップにおける「それさえ守れば誰もが参入できる」ルールも、特定の関係に固着することなく、思いやりながら自由に離れたり一定の経緯ある距離を取るためのものだと言えそうだよね。もちろんジャズを演奏しているときにこんなこと考えやしないけど、それは必ずあるな。「自由に離れる」なんか、もうせめぎあいだよね。煽られたり、引っ張られたり、飲み込まれそうになりながらも、安心して背中を任せて演奏しているのがアドリブだし、そういう仲間と出会えたときに「あいつとやるの楽しいな」と思える。そうなると、教育や学びってやっぱりルールが必要で、それが何故かといえば、千葉雅也さんのこの共同性を形成するためなんだろうと思う。

B:一気に話が速度感出てきたけど、それはすごい重要な話な気がするね。昨今だと、ブラック校則とか子どもを尊重するとかで対等な親子関係とか、とかくルールって嫌われる存在だから。でも個人的にもっと強調したい観点が、教育や学びが自分の成長に集約されるような話、今だとリスキリングとかの話との対置ね。あれって裏を返すと「成長のないやつは努力が足りない」っていう話じゃない。こういう新自由主義的な音のする教育や学びって、人類がこれまで学んできた「役に立つ奴だけで社会や共同体を形成するなんて無理だし、目指すべきですらない」っていう話を完全に忘れてるんじゃないかと。歴史を忘れた戯言ってビジネスの世界なんかでも横行してるけど、教育の分野でも大差ないような気がする。

A:ぐいぐいアクセル踏み込んだ話になってきたな。新自由主義批判はもう食傷気味だからまあ置いておくとしても、自己成長、自己投資を実現する手段として学びがあって、それを達成したものが社会をコントロールすべきっていう話の教育は確かに歴史性を無視しているって言えるかもしれないね。鳥羽和久さんの『君は君の人生の主役になれ』や『親ときどきこども』なんかでも手段に堕した教育みたいな話があったから、ぜひ読んでみるといいよ。

B:じゃあ、どうして歴史性がここまで無視されるようになったかだよね。

A:うーん、実際に歴史性を無視していると単純に言えない気もするけどね。だって、こども家庭庁とかの考えてる「歴史」も俺らとは違う意味だけど、やっぱり歴史なんだろうね。日本は家族が中心だったんだ、ってアレね。

B:いやいや、流石にそれと一緒にされちゃあちょっと…あんなの捏造されたフェイクじゃん。

A:でも一部の政治家などが得意気に口にする「うつくしい日本」とかだって俺らの立場からは認められないかもしれないけど、彼らにとっては「歴史」として機能してるんだと思うよ。だとすれば、歴史が無視されているっていうよりも皆がそれぞれ歴史を編み出すことができるようになった社会なんじゃない? とはいえ、SNSで多様な意見や思想が育まれたかと言えばそうじゃないように、結局は大勢っていう流れができているだけなんだけど。それでも、ストーリー優位な社会なんだろうなと思う。
じゃあ、その消費されるストーリーとジャズの定番フレーズ、ヒップホップで反復される身振りってどんな違いがあるのかと言えば、やっぱりそのストーリーなりフレーズなり、身振りなりが反復されたり、演奏されたり、演説で口にされるその状況を見極めるべきなんじゃないかな。つまり、人々を「強く特定の関係に固着」させず、「自由に(他者と)離れたり、互いに対し一定の敬意ある距離を」とれているか。

B:ちょっと具体的な姿がどういうものかイメージがやや湧きにくいけど、納得はするかな。教育がルールを守ることを教えるのではなくて、なぜルールがあるかを逸脱しながら学び、さらにはジャズのように新たなルールを設けてみたり、また再びそれを壊してみたりとか、そういうことが教育なのかもしれないね。だから、教育は共同体の中で行われるべきだし、自己成長などは確かに関係あるけれど、目的ではないってことだよね。


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どうしても長くなってしまうので、一旦ここで。実際にはもう少し話が続きます。

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