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創造は決まっていないことへの歩み寄り

モノゴトに不足があれば、自ら気付いたり他者に指摘を受ける。場合によって、内心めんどくさいと思ったり、至らなさにショックを受けたり、焦ったり、あるいはポジティブに捉えられる人もいる。

モノゴトを考え始める時は、きっと決まっていないことのほうが多い。決まっていないと結論が導き出せないなら、たぶんこの世の中は成り立っていないんじゃないか、と思う。

不足に向き合えず、自分の中だけで自己肯定するには、もったいない気がする。この不足にも意味があるのか?モノゴトを考えて決め、かたちにするクリエイティブ業の一端として、少しだけ反証してみたい。

毅然として、整然としていればいいの?

モノゴトの不足なんて、ありふれている。法律やルールで決まっていると結論づけてしまえるほど、人も世界もそう単純じゃない。

隣の誰かの小言に、政治家の言い分に、罪人の心理に、愛憎あふれるタイムラインに、表現の自由と、人と世界の不確かさを知れる。

人によって、決まっていないと話のできない人もいる。「どういう意味ですか?」「何軸の話ですか?」「結論は何ですか?」

毅然とした態度で、整然とした考えを求められる場面や関係性もある。ただ、人は機械とは違う。瞬時に答えを出せないこともたくさんある。そんな話し方や関わりだけで、うまくやっていけるんだろうか?というと、違うと思う。

不確かさを確かに肯定する

「○○○に対して、あなたは考えは?」

聞かれる。曖昧、どっち着かず、分からない。決まっていないモノゴトに対面すると、自分が意識できていなかった不確かさに、不安になるんだよね。毅然とした人も、本心はそうじゃないだろうか。

だから尚のこと、話にならないと遮断する前に、それ自体を認めたっていいじゃないか?と問いかけてみる。

気分(不安)と状況(不確かさ)は切り分けできる。曖昧、どっち着かず、分からない。不確かな状況がもたらすそれらは確かか?

分からなくなったら思うままに書き出したり、声に出してみる。表現できなくて苦しんでも、たとえば「あーーー」って、声に出せばいいんだよ。耳に聞こえる声は、確かに不確かに聴こえる。認めることができる。

不足があるから充足できる

何かが不足してるから迷える、探れる、促せる。そしてモノゴトを決めることができる。他者との関係のなかで厳しい言葉をかけて心の中で応援したり、誰かの背中をそっと押すこともできる。

はじめから毅然としていたって、きっと何にも生まれない。

足りない状況について優しく諭されようが、強く言われようが、不足は好転的なものとして捉えられる。未開拓、未描画、未検討の余白があるからこそ、そこで問答して、充足していける。

問答への歩み寄り

(1)違和感や疑問を持つ
(2)不足を認める
(3)そこに問答しながら何かを充足できる

こんなふうに書き出してみた。こんなフレームの中で考えることって、ごく個人的な価値観や経験による思考だと思う。誰もその問答を替わることはできない。

ここで少し視点を広げると、不足や決まっていないことに対して、悩めるあなたがいる一方で、全く違うことで同じように悩める万人がいるはず。

個人が好転的なものとして捉えられるなら、万人いる個人に対しても同じことが言える。かといって、誰かの問答(3)を替われますか?と言われるとたぶん難しい。

けど、誰かが向き合っている違和感(1)や不足(2)には同じように向き合える。共感できる。歩み寄って、話ができる。これって、とても機械的に替われない「創造的なこと」だと思う。

歩み寄る先に何もないことはない

個人的に「創造的」、「クリエイティブ」という言葉に違和感を持つことが多い。noterはクリエイターと呼ばれるし、クリエイティブ業みたいな業界もある。伝えやすいから自分も自己紹介文に使っているけど、自分個人を「クリエイターです。」とは言いたくない。

クリエイティブと言われる仕事も書くことも、すべてゼロからやっていることってあるのかな?と思う。神でもないし、何を創造するんだろう。でも、たとえばnoteを読めば、他人の違う違和感や疑問を知れる。そこに個人の向き合いきれない不足、絶望があったとしても、人が関わる以上、そこにひとつ以上の何かが見つかるはず。いろんな視点を持ってすれば、何もないことはない。

僕の考えるクリエイティブの意味

何もないことはない。その何かとは?小さなレベルなら、僕らのような凡人の未決や問答なんだ、と考える。話を戻すと、あらゆる不足から生じた、日常で見向きもされない些細な心の葛藤も、表現して外在化することで、誰かの共感を呼んでくる。

だから、どれだけ決まってないことにも歩み寄っていたい。その不足に意味がある。自分や誰かの問答を支える力は、そのまま世の中を支える力になる。時に世界を変える。「クリエイティブ」の意味があるとすれば、僕たち凡人が小さくても決まっていないことや不足を認めて、それを最大限に好転させることだ、と思う。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。