見出し画像

設計しない制作プロセスとその危うさ

ウェブデザインやシステム開発で、設計のない制作プロセスで進めてしまった挙句、あとで収拾つかなくなるような話をチラホラ聞く。SIerさんが聞けば怒られそうな話だ。PMとして自戒の意味で(関係ない写真とともに)パッとアウトプットしてみたい。

設計がないとどうなる?

「設計とは」なんて話せるほどの知見もないが、設計がないと結果こまったことになる。

・思ってたんと違う
・意図のないものができる
・実現性のないものができる
・実装が複雑化する
・エラーケースを想定できない
・運用時のバグの温床になる
・管理しにくい
・正解が分からない
・犯人探しになり目的を見失う

思いあたること、あります?あ、そんないい加減じゃないって?
(写真と内容は全く関係ありません)

設計しないプロセス

では、設計しないときってどんなときか?思い出すのは、リニューアルやリプレイス案件で「内容はそのまま」「デザインを変えるだけ」というような(そしてそのまま実装に進む)案件。また、要件定義は代理店さんに任せる(そしてそのまま実装に進む)旧来型のプロダクションフロー。単に絵をつくるだけで進んでしまう、こんな感じ。

1.ワイヤーフレーム:要求(いきなりデザインする場合も然り)

2.デザイン:要素の表象上の適正

3.フロントエンド:デザインの再現、フロントの適正

4.バックエンド:フロントエンドの再現あるいは沈黙

「明日までにペライチお願い」的な。懐かしい感覚だが、そこそこ名のあるプロダクションでも未だこんなやり方をみる。まず、これらは設計やそれ以前の明確な要件がない。意図が不確かなまま走っちゃうものだから、工程としても分断している。どの段階で元を辿ろうとしてもつながる理由が見つけづらい。うまくいく規模ならそれでいいのかもしれないが、結果的に不整合のタネになる。

・要求(ほしいこと)と要件(すべきこと)の区別がない。
・各工程ごとの目的に終始する。
・各工程は職域で分断され、前後工程は考慮されない。
・職域の隙間にある作業が抜け落ちる。
・最終的にプロダクトとして何ができるか担保がない。

個人作業の総和 ≠ プロダクトの設計

分業の進んだ業界で、個人の作業に閉じても総じて良いことはないように思う。例えば、デザイナーは基本静止画の世界で、表象上のトンマナ、バランスでしか語らない。ライターは原稿上、フロントエンドはHTMLだけの適正、サーバサイドも、インフラも。では、このプロダクトを作ることは誰が考えるんだろう。

ソフトウェア開発のなかで、V字モデルというものがある。この考えには、やったことを反証(間違いないか客観的に証明)する、工程の基本的な流れがまとまっている。ここには個人という概念はない。それぞれがそれぞれの作業だけをしていると、その作業の中でしかテストができない。(作業の適正は分かっても、その作業方針とした理由は分からない。など)

また、工程が分断することで、職域に関係ない話が抜けがちになる。ウェブであれば、エラーページなどに代表される例外系のフォロー、SEO対策やSNSシェア、ユーザビリティ、アクセシビリティ。これらを制作者は作業として認識し、あと付けの義務や配慮と捉えられがちになるけど、本来はプロダクトの目的・成果に直結する本質的な話だ。担当者個人が詳しいかどうかは関係がない。

取り組みたいプロセス

はじめから、意図をもってプロダクトを作ればいいんだ、と思う。プロダクトを作るには基本設計、外部設計が必要。設計にはニーズに裏付けされた目的や成果が必要になる。それを考えるための、UXUIのアプローチは転がってるが、ここでは、制作のスキルセットを中心に持つ人から取り組める話として考えたい。

目的・成果をはじめから意識しつつ、いろいろなフレームをかいつまんだ持論から、単純に取り組めそうなプロセスを並べてみる。(若干脈略ないのは生暖かく見守ってほしい。)

1.要件定義・UX設計:目的と狙いの目線合わせ

2.UI設計:ワイヤー・モック等による仮説化、正規化

3.プロトタイピング:インタラクション含む仮説検証

4.本実装・テスト:品質、実現性の向上

なんのことはない。いかにもデザインスプリントやアジャイル開発の本に載ってそうなフローだが、クライアント案件やウォーターフォール型開発に取り入れちゃダメとは誰も言ってない。流れながらでも確かめあえる。

/ / グァ、グァ \ \

大事にしたいのは工程ではなく観点を集めているという点。前述のフローでは段階ごとに観点が違っていた。異なる観点を集めることで、メンバーがひとつのプロダクトに対して目的を共有でき、段階的にクオリティを高め、目的を達成することができる。

設計しよう

悪い面から書いてきたが、設計をするとプロダクトの意図が明確になり、品質を高めたり、結果的に働きの成果を相手に伝えることができる。やらないと、アッチガイイコッチガイイとなったり、いろいろともったいないのだ。

冒頭書いたようなことが起こっても、作業者の観点だけでは気づかない・気づきづらいこともわかる。ただ、設計のない作業は制作と言えるのか、そこに当事者性はあるか、考えたい。管理側も作業者も、職域も関係なく、そもそもデザインは設計である。個人のリスクヘッジより、1つのより良いものをつくるため。設計しよう。

/ / メ”ェ”ーーー \ \

いいなと思ったら応援しよう!

YasuhiroMuraji
もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。