できないことほど、捉えにくい
最近このツィートをみてハッとした。
否定より肯定。できないことより、できることのほうが捉えやすいんだって。むかし、社会心理学かなにかの書籍で読んだ。捉えにくいうえ、できない状態は想像したくない。「できる」と思っていたい。
心の声ならいいとして、相手がいる相談や検討でも同じでいいのかな。時と場合によって、よくないような気がする。自分なりに反証してみたい。
「できる」と話せて「できない」と話せない無意識
「できる」と言うのは簡単。余裕余裕。我々は分かってるから。やるときやるから。神だから。なんて、脳はとても都合がいい。
逆に「できない」とは積極的に話せておらず、つい「できる」と言ってしまう。
無意識に「できる」の裏にある「できない」を「できる」にリフレーミングしてしまう。「できない」も明確にしないと危ない。プランには「できる」ことだけが掲載されて、後から期待に沿えない可能性もなくはない。
(「できる」「できない」でゲシュタルト崩壊してきた…!)
「できる」と「できない」を考えるタイミング
「できる」「できない」といった判断は、いつどこでやるんだろう。仕事だったら、おそらく、案件のはじめからおわりにかけて、どんなタイミングでも起こりうると思う。これできる?あれできる?なんて疑問は沸々と湧いてくる。神々は常に裁きのときを待っている。
(なんか宗教っぽいな…そして意味不明だ)
とりわけ、「要件定義」と言われるようなフェーズでは、要件の判断や検討・折衝の機会が多い。職種柄、基本的にクライアントの要求を聞いて、要件を詰める、ということをよくしているが、要求だけでは要件にならない。ここにどんな判断が必要になるか。仰々しく言わなくても、いろんな仕事に当てはまり、多分みんな普通にやっている。
要求と要件のあいだに
要件定義でなぜ「できる」「できない」といった実現性を考えるのか。自明だけど、ことばで反証してみる。
仕事や会社、個人によって解釈は異なると思うけど、自分が思っている要求と要件の意味をとんでも端的に言うと、
要求=やりたいこと、結果
要件=すること、プラン
になる。
要求側の要求(やりたいこと)に対して、提案側はある程度の実現性をもって、要件(すること)として応えていく必要があると思う。要件を確定するのはあくまで要求側だけど、提案側はあらゆる手立ての中から、有効かつ実現性のあるプランを立ててそれをサポートする。
実現性、つまり「できる」「できない」は、この要求と要件のあいだにあるはず。そこにあってほしいと思う。(いないなら呼んでくる。)そして、その実現性は要求側と提案側で捉えかたが違う、ように思う。どう違うんだろう。
提案する側の「できる」「できない」
期待があって、相手の要求をなんとか満たしたい。自分ができて、相手に向けて貢献できる。ビジネスニーズに応ずる、ごくシンプルな話で基本的な話だと思う。かたや、
できない約束はしたくない。
と思う。「できない」ことは、勿論できないし、できないものを無理すれば、想定しない結果や不具合を生むリスクもある。できないことを言えないって、正直なところどんな事情・心理があるのか。
・期待に応えたい
・できないことで実力より低く評価されたくない
・個々の要件に対しての可否しか見えていない
・契約やコスト上で約束してしまっている
先の実現性、ビジネス面でのニーズから、ただの個人的な弱みまで、良いも悪いもありうる。
要求する側の「できる」「できない」
要求側は「できる」「できない」以前に、ビジネスニーズ上で達成したい成果という大きな目的を持っている。「できる」ことでも目的に沿わない場合や、条件・状況によって不利益ならば「できなくていい」場合もある。
基本こちらも同じで、「できない」ことを無理してリスクは持ちたくない。あと、おそらく実現手段まで厭わない。予算は合理的に費やす必要がある。
・より良いビジネスの結果を得たい
・逆に不利益は蒙りたくない
・実現できないリスクは取りたくない
・提案側の実現手段まで厭わない
・無駄なコストはかけたくない
要求側は個人の都合で言ってられないところがある。次の書籍は大企業で働く人の考えを知るきっかけになったもので、提案側にもオススメしたい。いやはや「作りゃいいだけじゃないよ」ということを伝えてくれる。
相手の「できない」都合を理解したうえで..
良い悪いはありそうだけど、お互いがお互いに、「できない」ことにできないなりの都合がある。それぞれに、背景として抱えているものがある。そしてそれは、とても見えづらいから、なおさら、表面的なことばの先にプレゼンスを持とう、相手の都合を理解しよう、と努めたい。そのうえで「できる」都合も「できない」都合も加味したプランを考えていけたらいいな。
まだまだ浅学で、書きながら考えを整理しているので、もし次の記事を書きたくなったら、「では、どんな場面で、どう伝えるか」ことばにしてみたいと思う。