日常:2019/9/26 プラットフォーム
朝のプラットフォームにいる。人波は集い、人束となって改札を抜け、また各々の持ち場に散らばっていく。
東京に向かう空から、めまいするほどの入射光。間延びしてなお存在感のあるシルエットが、コンクリの地を這ってどこかに消える。
ここ2年、毎週の出張だった。新幹線か飛行機で移動した。駅では動き出すまでの数分間を味わう。人間観察と、いつも通りいらん思索に耽る。もう、同じルートを通ることもなくなる。
早朝5時は肌寒くて、今季も不精者の衣替えが追いついていない。おまけに、ノドの不調もそのせいにしている。自責思考のクセが離れない。
徐々に日が昇る。歩き始める。夏が終わったような感覚を、まだ疑わしく思う。信じるに耐えないのだ。強情とは裏腹に、身体は弱く潰れてしまう。それに気温も気圧も安定しない。安定しそうにない。そんな諦観も忘れて、今日もサラリーマンの、通勤の波に紛れていく。
気分と状況を分けて考えようと、あれほどトレーニングしたはずが、分け隔てられない“情熱”たるものがある。丁寧に切り分けたとしても、気分と状況はどこかで不可分。情熱が状況を創り出し、状況が情熱に油を注ぐ。というのが、この6年半で知り得たことだと思う。
たどり着いた国内線のロビーは、夏休みの頃に比べてサラリーマンが増えている。ほんの少し、疎ましく思えたディズニー行きのテンションも、この頃には懐かしく思える。もう10月になる。
この月末に、勤めてきた会社を離れる。自分の経歴としては一番長く、ここまで印象深い時間を過ごしてきた。そこに、のっぴきならない話も、溜まった垢も不条理も、報えない後悔もあった。20代の真っすぐな姿勢は少し忘れてしまったけど、そんなアレコレも含めて日常にしてきた。
変わり続ける日常を、日常たらしめていたのは何だろう。「根性」と一言で済ませるには足りない、他者との問答や葛藤。右往左往した時間があった。えらそうに言えば、その時間に向かう姿勢を持った。数えれば気が遠くなるほどの失敗、謝罪と感謝を残して、この濃ゆい時間を終える。ミシェルウェルベックの物語のような、ひとときの愛憎に終わることのない人生の一端で。
そして来週には、別のプラットフォームに立っている。今日は最後の出張。この瞬間に、残る仕事に取り組もうと思う。