社員もブランドを捉えたい
事業のブランディング、ブランドについて考えている。
自分はいまデザイナーとして働いているけど、少なくとも、ロゴやタグラインを決めたら=ブランドとは思わない。大事だけど、即物的な側面はそのひとつ。それも、根幹がないと考えることが難しい。
機能や雰囲気の前に捉えるべきことがある。思索するほど、そういう気持ちが高まったので残しておきたい。
そのもの:自問するループの中で
これそのものがブランドだ!と定義して終わるなら、この話は終わる。これがブランドって、どれのことだ?
ブランドは価値。組織の非物質的価値を捉える。そのためのフレームもある。事業の下に組織のミッションやビジョン、フィロソフィがある。対内と対外のいずれにも語れて、理解できるモデルが定義される。
ブランドの定義は、ブランドを考えた結果的な産物。フレームはあくまで『その対象を捉える補助的なツール』と認識してきた。でもブランドを考える、捉えることって、さらに根底の話だと思う。
ブランドを考える、捉える、とは、どういうことか?変化し続ける企業なら当然のように、価値と定義を自問するループが生まれる。接点を見出す。解釈を探る。違和感を見出す。社会や時代に順応する。
帰属する個人、周りの人々、社会のそれぞれの関係性の中で捉え続けているものだ。きっとキレイなフレームに落として終わるものじゃない。
ブランドと個人:エゴを重ねる
ブランドの定義の、さらに根底を考える。社会の中でそれらをカタチ作ってきた人々のエゴが見え隠れする。何かを狙うより前にある、大小無数の個人的な欲求を感じる。
それを一昼夜で、端的なコトバで理解しきれるとは思わない。人のエゴを読み解くのは至難だ。何年と生きてきた考えや経験を重ねてきた愛憎を、カンタンに捉えることは難しい。
かといって、そこに触れることもなしに強いブランドは成り立たないんじゃないか。上辺だけでは、その先も見えないんじゃなかろうか。
腹の底から理解したい。確かな実感を得たい。自分がたとえ平のペーペー社員であろうと、たとえ、いちユーザーとなろうとも、思いがあるのなら、その無数のエゴを捉えたい。丹念に。他者に協力してもらいながら。量はあるだけいい。
荒い話だけど、根底ってそんなキレイに重なるものではないと思う。そこに自分たち一人ひとりのエゴを重ねて、自分ゴトとしていきたい。そして捉えたブランドを、自分の口で語りたい。
自分は、なに故にここにいるのか。重なりが増えれば増えるほど、ブランドは確かさの実感を増すように思う。
社会と人々:つながりの由縁を確かめる
組織や事業の成長を考えるなら、なおのこと、ブランディングは決して表象的なもの、ではないんだと思う。何らかのモデル化が必要だと感じる。それは使えるものでなくては意味がない。
社会に人がいて、自ずから集まった組織がある。そこであらゆる領域が神経のようにつながっている。組織は有機的なもの。変わり続ける組織が持っているもの。そこから捉えるもの。そこから育まれるもの。人々とそのつながりが、ブランドたる由縁じゃなかろうか。
では、自分は、他者は、何を背景に、どのように、どうやって、どのぐらいつながってるんだろうか?つながったそれは、組織である前の何なんだろうか?今まではどうだったんだろう?
あらゆる由縁を探して、なんとなく認識している組織を確かめたい。私たちは何なのか。
モデリング:丹念に捉える
知るほどに、思索するほどに、何かが見えてくるように思う。もっと知りたいと思う。急がず、できるかぎり丹念に、これをモデルとして捉えてみたい。
そうすれば、他者も腹落ちするブランド像が見えるかもしれない。表象的なものは、きっとそれからだ。