「こんなの」の受け取りかた
「え、なに? …こんなの好きなの?」
たとえば、近しい誰かに言われて、あたまに思い浮かぶ “こんなの” は “どんなの” でしょうか?
マニアックなこと?性的なこと?危険なこと?
相手の知らないこと?なにか、意外性のあること?
つまらないこと?それとも、おもしろいこと?
どうであれ、それがその人にとって “普通” でなかったことは確かそう。聞いた彼に、きっと悪意はない。ただ彼の普通とは違った。
僕は、そんなことを言われた記憶がなかった。記憶がないだけならいいけど、もしかすると一度や二度は言われてたのかも。聞いてない、と思われてたのかもしれない。もっとも、そう言われるような人と付き合ってこなかった。
すべて都合の良い脳が捉えなかったんだろうか。好きなことも嫌いなこともハッキリしていた。「こんなの」という言われはどこにも持っていない。
時を戻そう。
「え、なに? …こんなの好きなの?」
この言葉。それは自分が高校生の頃、同級生に言われた言葉だった。
その人とは、学科棟も違えば授業も部活も一緒にならず、接点も何もない。陽気そうな子で、多数派グループの中で、とても充実しているように見えた。個人的にあまり興味はなかった。その時以外に言葉を交わした記憶もなく、なんとなく関係することもない。
それが、たしか知り合いが話している場で、音楽の趣味の話になったんだっけな。たまたま僕はそこにいて、たまたま話していただけだった。あまり聞かれない音楽の趣味を話していた。そんな僕に、いや僕の趣味にかけられた言葉がそれだった。
何か否定されているようで、こんな嫌悪感を持った。
え、知らんやろ?
マニアックだと思って馬鹿にしてるんでしょう?
そうだもの、どうとでも言っとけばいい。
そんなことを思う間もなく、次の瞬間が訪れる。
「へぇーへぇー!それどんなとこが好きなん?」
彼は一重を見開いて、期待の耳を傾けてそう言った。鼓膜をつつくような声色で。
( …? )
呆気に取られたが、どうも期待されている。たとえ黄色信号が点滅を始めても、僕たちは小走りで前かがみに進めばいいことをよく知っている。慣性に任せて口を走らせる。そう、こんなのが好きなんよね。いつも聞いている音楽の、好きの散文詩をあーだこーだ。
彼とは初めて話すのに、えらく興味をもって聞いてくれた。今度は彼のことを聞きたくなって、聞き返してみた。
「どんなの聞くの?」対して、偏った自分とは対照的に幅広い音楽の趣向を話してくれた。そこで印象的な言葉を残した。
「音楽って、選ぶもんじゃないと思ってる。どれも良いし。」
”どれも良いし”。もっと軽いニュアンスで言ってたけれど、それは”どれでもいい“ でなく”どれも良いし”だった。“OK” ではなく “GOOD”。
その日の授業が終わった。癖のあるリフレインが、ひとりの下校路で鳴っている。
”どれも良いし”
歩みを進めながら、その手前に一瞬だけあった嫌悪感を思い出す。
【 “普通” ではないこと = 笑われる、バカにされる、気持ち悪い 】
そんなふうに思い込んでいたのかもしれない。学校という閉じた環境で、積極的に自分の趣味を出すようなことはしていなかった。今だってそう公にしているわけでもないけど。
あの嫌悪感は、どこから来たんだろう?
自分の勝手な思い込みだったんだろうか。多分そうだ。「こんなの」を “趣味” に対してではなく、 “こんな趣味を持つ自分” に対してだと受け取った自分の勝手な嫌悪感。
冬の暮れは早くて、家にたどり着いた頃には暗闇になっていた。期待値に沿うように、玄関の灯はあかるくて暖かい。
小中学生の時は、周りか大人かの見マネをしていたのかもしれない。人が知っているJポップの選択肢から選んで、話題に聞こえたドラマもみて。大衆に向けた程度の良いエンターテインメントを享受していた。それは追いかけているようで、ただ受け取って眺めているだけだった。
彼の言葉を聞いてから、今まで聞いてこなかったジャンルの音楽を聞いたり調べるようになった。
いつかの “普通” が溶けていく。おかげで、極端に選り好みすることが減った。ケーブルテレビの音楽チャンネルやその後のネットのせい(おかげ)もあるのかも。興味の赴くまま掘り漁り、いろんな世界を知る。「こんなの」がたくさん見つかる。彼のメッセージは、
世界は選り好みしなくてもいいんだ
と、受け取っている。あれから20年が経って、たくさんの音楽や文化、その背景にある世界を知ることができた。
いま思えば、やけどね。「こんなの」を伝えた陽気な彼は、世界のたのしみかたに気づく、きっかけを与えてくれたのでした。