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「芸術、虚構と正直、そして真実は」

 わたしと妻とを比較すると両者とも神経質で相手からどう見られているか、思われているかを気にするところだ。
 
 違うところは、わたしは、「虚構」の美しさを知っている。この世の中が何でもかんでも正直に言う「正直者の世界」だったらどうなるであろうか?
 
 考えてみて欲しい。何のために言葉をわざわざ修辞、隠喩、暗喩を使って表現したり、誰でもが知っている「一般言語」を、わざわざ「自己固有の自己の身体の一部にして」表す必要あるのだろうか? もちろん、この世の最底辺は、「真実」としての「正直」である。しかし、よく「間の抜けた正直さを表すために意味なく淡々と言葉を並べる」人がいる。これは、陳腐そのものだ。「真実」から遠いし「虚構」の美しさ広がりを持っていない。
 
 わたしは、そういう「馬鹿正直者が言う正直さ」は嫌いだ。生きているこの世界にいきいきとした喜びを退屈さ、凡庸さで消し去ってしまう。
 
 芸塾家になるならば、「虚構」を磨くことだ。芸術に「間の抜けた調子が外れた正直さ」は必要ない。「虚構」こそが、磨かれた「虚構」こそが真の「真実」に近づくことができ、「正直さ」とは、別の意味を持ってくると思う。「虚構」を作る時に、創造するときに抜け落ちたものが「正直さ」かもしれないと思う。
 
 わたしは、「虚構」のもつ響き、美しさ、意味合いを大切にするが、妻には全くわかっていない。すべてを淡々と正確に間の抜けた正直者として答えていけばよいと思っている。
 
 わたしは、妻の持つそういう感覚が「陳腐過ぎて」嫌
いだ。


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