作品評|太田ステファニー歓人『みどりいせき』
ネクスト・ジェネレーション・ヒッピー
高木翔子
私の地元はマジでくそだ。町中に響くのは虫の音とカエルの鳴き声とバイクの爆走音で、この町の生活を支える製鉄所は鉄粉を降らせていた(しかもたまに爆発する)。人々はこの製鉄所からの空気を吸ってみんな気が触れているのか、この世で一番の娯楽はゴシップとギャンブルとセックスで、高卒で地元に就職し結婚して死んでいくことが最も尊いとされていた。私の数少ない楽園はしょぼい図書館とレンタルビデオ屋、たまに変な本が並ぶブックオフで、それ以外は全部地獄だった。学校で流行ってるテレビ番組は下品でちっとも笑えないし、女子の間で回し読みされていたケータイ小説は暇つぶしにもならなかった。私は地元では「気難しい子」だった。世間や社会と規定されるものと自身との間のズレ。学校や地元が世界のすべてだったあの頃の私は、自分が異邦人か宇宙人であるかのような感覚をずっと抱いていた。
ヒッピーに憧れる
社会のはみ出し者はどの時代にもいて、とある時代のはみ出し者は「ヒッピー」と呼ばれた。ひげや長髪をたくわえ風変りな衣装で、ドラッグを吸い、サイケデリックなロック音楽を流しながら瞑想をする。社会に反抗して定職につかずに放浪するプー太郎。そんなイメージが強いが、実はヒッピーは反体制運動の象徴だった。同時代に起きた黒人の人種差別反対運動、ベトナム反戦運動、大学紛争のなかで、ヒッピーは愛と平和を謳った。ヒッピーは親密に結合された共同体で生活していて、そこには絶対的な神も権力者も区別もなく、誰もが一人の人間としてコミュニケーションを結ぶことができた。現代日本で、ヒッピーになってみる。そんな生き方を夢見た若者の姿が、大田ステファニー歓人『みどりいせき』には描かれている。
主人公の桃瀬は無気力で不登校寸前の高校生。ひょんなことから小学生時代に少年野球でバッテリーを組んでいた春と再会するが、春は昔とはすっかり変わり、いわゆる不良になっていた。おまけに違法薬物のプッシャー(密売人)をしていて、桃瀬はあれよあれよと言う間に密売の手伝いに巻き込まれ、プッシャーグループへと取り込まれていく。
馬鹿な高校生が犯罪に手を染めて痛い目を見る話。この小説を一言で表すならばこうである。しかしここで注目したいのは、プッシャーグループが溜まり場にしている「ヤサ(家)」である。ヤサにあつまる彼らもまた「はみ出し者」であり、学生でありながら学校の外にヤサという居場所を作っている。著者の太田は、執筆にあたって「サイバー・ヒッピー」というコミュニティに取材を行ったという[1]。サイバー・ヒッピーは複数人で共同生活を営んでいるクルーで、まさに現代日本におけるヒッピー的な生活を実践している。ヤサは現代におけるコミューンとなり得るか、その未来を想像してみたい。
はみ出し者の楽園
ヤサに集まるのは春とその親友の「ラメち」と「グミ氏」、同じ高校の「鳴海先輩」、指示役の「まどかさん」、そして巻き込まれた「桃瀬」。ヤサの様子を描写する際には決まって薬物が登場する。「ウィドー」「タンジー」「ジェラート」「ゴリラ」その他いろいろ。アメリカのヒッピーがドラッグ愛好家だったように、彼らもまたドラッグを密売するだけでなく、愛好している。印象的なのは、春にとって薬物の密売は「愛と自由を蒔いてる感覚」ということである。 ある時は「はぐみ(=グミ氏)が楽しそうにうた歌ってたり、ひかる(=ラメち)がゲーム没頭してるだけでうちは胸つまるときある」と、ヤサのメンバーを愛おしく感じていることが描写される。その違法さについては「とっくに死んだジジイどもが作ったルールなんて知るかよ」と言ってのけ、警察に仲間がパクられたことには「誰も悪いことなんかしてないから」と断言する。春にとって重要なのは薬物によるトリップでも、それを密売して得る多額のお金でもなく、ヤサの強固な繋がりなのである。
春はトリップした先で未来を夢想する。「しーちゃんみたいに、じぶんの、のうじょうもってて、あきになったらしゅーかくして、かわかして、なかまにはくばって、あとはおして、あ、そのころにはのうきょうとかにおろせんのかな」。みんなでピザを食べるシーンでは地の部分が省かれ、まるで読者もその場にいるような会話の応酬が続く。音楽の話。ピザのマナー。スプーンとフォーク。なんてことない会話は、学生時代に友達の家で当てもなく過ごした心地よい時間を思い出させる。
さらにもうひとつ印象的なのは、縄文時代を紹介するテレビ番組をバックにドラッグの煙が揺蕩うシーンである。ここでまどかさんが「認知革命ってマジックマッシュルーム食った猿人類が起こしたんじゃないかって思うんだよね」と発言する。人間は、嘘=虚構を信じることができたから繫栄した。嘘を信じられるから宗教が生まれ、嘘を信じられるから仲間意識が芽生えた。合法だとか違法だとかも誰かが決めた枠組みでしかなく、国が変われば文化とされる。そんな嘘っぱちの世界で、ヤサだけでは本当の自分でいられる。薬物のトリップ経験の共有や密売リスクの共有。権力と呼ばれるものへの抵抗や、体制の外側にある居場所としてのヤサの存在。そして裏社会に生きる優越感。それらがヤサに強固な連帯をもたらす。
若者言葉やスラングを多用した文体が独特のグルーヴ感を生み出し、読者は次第にそれに取り込まれていく。それと並行するように、桃瀬も次第にヤサでの時間を心地よいと感じるようになる。無気力だった桃瀬は、物語終盤でヤサの仲間のために大胆な行動を起こすほど成長する。しかし、物語はヤサに公権力の手が伸びたところでぷっつりと幕を閉じる。ここにあるのは、はみ出し者の束の間の楽園である。現代日本で、ヒッピーになることは難しい。
ヒッピーを受け継ぐ
『みどりいせき』の主人公は子どもたちである。生まれる時代も場所もなにもかも選べなかった子どもたちである。中盤、桃瀬は密売で得たお金を「スクラッチ当たった」と嘘をついて母親に渡そうとする。桃瀬の父親は中学生のころに自殺したことが示唆されており、桃瀬家の電気が止まってしまう描写などから、女手ひとつの家計はあまり裕福ではないことがうかがえる。また、そして春が少年野球を辞めたのも「女だからプロ野球選手になれない」という、誰が決めたのかもわからない、どうにもできない理由なのである。
本書でその続きが語られることはないにしろ、はみ出してしまった彼らにあまり明るい未来は想像できない。しかし、この小説を「馬鹿な高校生が犯罪に手を染める話」だとか、そのような言葉で一蹴しないでほしい。周りから「はみ出し者」とされた彼らはどこへ行けばよかったのだろうか。それは誰も教えてくれなかった。だから作るのだ、はみ出し者の楽園を。そこには絶対的な神も権力者も区別もなくて、誰もが一人の人間としてコミュニケーションを結ぶことができる。ラブアンドピース。この物語はドラッグの素晴らしさを語るのでもなく、闇バイトの危険性を警鐘するのでもない。ここに流れているのは、ただ放課後に友達と意味もなく過ごした、あの微睡むような時間である。道を外れたその先に世界が、居場所があったのだ。
60年代アメリカのヒッピーは、ベトナム戦争反対のデモで小銃を持った兵士に向かい合い、銃口に花を挿した。またある時は「愛と平和の連帯」を唱えて、大規模な野外フェスを開催した。そんなヒッピーがその後どうなったのか、具体的なことは知らない。ピースサインはいつしか街にあふれ、ドラッグは規制された。
はみ出し者はいつだって淘汰される。インターネットを通じて誰とでも簡単に繋がることのできる時代に、未だ私たちは兵器を使って戦争をしている。そんな時代にあってこそ、人間同士の連帯を素朴に信じたい。それがこの現代社会で、ヒッピーの末裔として生きることに繋がらないだろうか。
[1] 次を参照。https://www.cinra.net/article/202405-otastephaniekanto_ikmshiktay (最終アクセス 2024/10/14)