パンデミック下で作品を捉えなおす(1):濱口竜介『親密さ』

道と道が交差する親密な時間について

ギサブキリコ

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「場所」のオンライン上での仮設がすすみ、行けなかった場所に簡単に行けるようになった。そこで気づくのは「道」の不在だ。目的地までの行きと帰りの「道という時間」が、オンラインには存在しない。身体を伴って人に会えなくなり、わたしたちはバーチャルに会う。真ん中にあるのは目的地という点である。

『親密さ』は、道の映画である。

冒頭、道は恋人同士の令子と良平がすれちがう時間として現れる。それぞれ違う目的地に向かうふたり。徒歩の令子と電車に乗る良平がすれちがう一瞬、令子は手を降る。投げキスを送る。

ふたりは演劇の公演という目的地に、劇団みなで向かう道の途上であり、作品内では本番に向けた稽古の時間の背景で、韓国での戦争が進行している。

ふたりは同じ方向を進みながらもなかなか速度が合わない。それは途中、稽古方針について話しながら歩く速度が合わず、令子が良平についていけなくなる道のシーンとして象徴的に現れる。

本番の直前、ふたりの道の速度がはじめて合う。主演のミッキーが義勇兵になるため、劇団から離脱する。令子はなんとか成立させるため、良平に話さず脚本を改稿。激怒した良平を追いかけた令子と良平のふたりが、夜明けにかけて道を歩く、長い長い時間がある。20分近くのワンショット。ここでふたりの道は速度が合い、手をつないで道をすすむ。だんだんと闇が明けていく空を背景に、ふたりの黒いシルエットが、ぽつりぽつりと言葉を交わしあうシーンは、美しい瞬間であると同時にこの道の先、目的地である「公演」の先に、別れ道があることを想起させる。

「道」は個人的なものだ。あなたが目的地へ向かう時、電車、自転車、徒歩。寄り道したり、遠回りしたり。ひとりで行ったり、誰かと行ったり。あなた固有の選択がある。

「道」は個人的な時間であるがゆえに、あなたとわたしの道は違う。固有のリズムで生きる別個の身体は、それぞれ違う道を辿る。

劇団が目的地とする公演は、観客がいるパブリックな時間だ。対してプロセスという稽古の道はプライベートな時間で、しばしば葛藤や迷い、言葉にならないものと共にある。本番への道中、速度が合わなくなる者、道を分かつ者もいる。観客には主演が降板したことは見えない。

ラスト、公演から2年後、分かれたふたりの道が、再び奇跡的に交差する瞬間がある。就職し編集者となった令子と、義勇兵となり韓国へ向かう良平が、駅のホームで偶然出会うのだ。それぞれ違う路線に乗ったふたりだが、電車が並走し速度が合う、そのつかの間、ふたりは懸命に車内を走りながら、互いに手を振り投げキスを送りあう。

オンライン化によって「道」がなくなったと言った。でもそうじゃない。目的地しか目には見えにくい。でも、それぞれの道が確かにある。

ミッキーが降板を決めた時、令子は彼に「ミッキーのこれからやることが、わたしたちと関係ないって思わないで」と言った。道を分かち、手を振り合う距離にいなくなっても、関係なくはない。目的地を違えても、そこに居合わせなくても、関係なくはない。

本番前の道のシーンで、まだ恋人同士だったふたりのこんな会話がある。

令子「夜明けが好き。夜も好きだけど。夜明けがあるから好き。何か大切なものが、受け渡されてる気がする」

良平「大切なものって?」

令子「時間。君といる時間。いない時間」

わたしたちは刻一刻と変わり続け、それぞれの速度で、個人的な道を生きている。目的地での待ち合わせでは「間に合わない」わたしたちが、一瞬誰かと手を振りあえる瞬間、それぞれの道が奇跡的に交差する瞬間、「道」という時間について考えたい。

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対象作:濱口竜介『親密さ』(2012)

ギサブキリコ:神戸大学大学院人間発達環境学研究科

*本レビューは浄土複合ライティング・スクールの課題として執筆されました。https://note.com/jdfkg_school/n/n8cbcc1a89cc1


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