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作品評|『関心領域』

無関心ではいられない

今井花

誰かのくしゃみ、子供たちの賑やかな声、電車が走る音。小学校のチャイムが鳴ると近所の犬たちが一斉に遠吠えを始める。日常には様々な音が溢れている。部屋に一人でいたとしても、世界にはたくさんの人がいるのだと感じられる。部屋の窓を開けると、木々を剪定した緑や隣人のご飯の香りがする。自分が作る料理の匂いや家族が弾くピアノの音も、きっと周りの家に届いている。暮らしを構成する音や香りは、自分以外の存在によっても生み出されている。

日常と感覚の関心領域

《関心領域》は、アウシュビッツ強制収容所の隣に暮らすドイツ人家族を描いた映画だ。アウシュビッツを舞台としているが、直接的に悲惨な場面は描かれず、収容所の様子も映されない。きれいに整えられた自宅で、夫婦と子供たちは穏やかな日々を送っている。一見すると平凡な家族が、なぜ収容所の隣に住んでいるのだろうか。それは、父親が収容所の所長だからである。集中して作品を観ていると、彼らの日常が、実は普通ではないことに気づく。母親が嬉しそうに身につける洋服やアクセサリーは、収容所に送られたユダヤ人の所持品で、父親はユダヤ人虐殺の効率について同僚たちと議論している。家の敷地はそびえ立つ無機質な壁に四方を囲まれ、焼却炉が稼働する音が通奏低音のように響き続ける。

映画を観ていると、視覚的な要素は印象に残りやすい一方で、直接的に伝わらない匂いや触覚は、どうしても存在そのものを忘れてしまいがちになる。《関心領域》では、映画を観ているうちに閉ざしてしまった感覚を取り戻させるような場面が度々描かれる。一家が寝ようとすると、焼却炉の炎が寝室を昼のように明るく照らす。焼却炉は高温を保つことで大量の死体を燃やしているのだと主人公が言う。窓を開けたら焦げた匂いと熱気が吹き込んでくるだろう。サーモグラフィで撮影されたシーンでは、少女が暗闇の中で輝いている。温度を視覚的に捉えることで、人間は温かいし、地面は冷たいのだと当たり前のことを思い出す。ガーデニングが趣味の母親は、生まれたての我が子に、庭に咲く花の匂いを嗅がせる。

匂いと記憶は深く結びついているらしい。私が受験生だった頃、香水を嗅ぎながら暗記し、試験当日にその香りを身に纏うと良いと聞いた。実際に試したことはないが、街中でふと嗅いだ香りから何かを思い出すことはある。例えば、香ばしい茶葉の香りを嗅ぐと、子どもの頃に見ていた景色が蘇って一瞬タイムスリップしたかのような感覚になる。いつも通っていた道に、大量の茶葉を焙煎している店があったからだろう。

映画の中の家族たちは、きっと毎日、焼却炉から出る煙の匂いを嗅いで過ごしている。子供に花の香りを覚えさせるのは、せめて記憶の中だけでも、きれいな世界で育ってほしいという親心なのかもしれない。いつか大人になったときに自分や家族を思い出すきっかけが、煙の匂いではなく花の匂いが良いと思うのは自然なことだ。彼女が花の名前を一つひとつ語りかけながら、抱きかかえた我が子を花に近づける様子は美しくて、壁を挟んですぐ向こう側では、その瞬間にも大勢の人々が殺されている事実とのコントラストに恐ろしくなる。狂気的とも言える暮らしを送る彼女にも、自然を美しいと思う感性や子供への愛情があって、自分と変わらない普通の人間なのだと思い知らされる。彼らは決して、はじめから異常だったわけではなく、誰もが彼らのようになる可能性を秘めている。

表面的には穏やかに暮らす家族のなかで、生まれたての子供だけが、日常の歪さを訴えるように泣いている。成長して自分をコントロールできるようになった者たちは、自宅の敷地内を自身の関心領域に設定して、壁の外側で起きていることには意識を向けない。しかし、どんなに無関心、あるいは無自覚であったとしても、身体はいつも音や匂いを感じている。身体は自分の周りの世界と無関係ではいられない。

スクリーンという関心領域

自分にとって理想の場所だと主人公の妻が言うように、一家の暮らしは非常に整然と充実している。色とりどりの花が咲くプール付きの庭、賑やかなホームパーティー。現代から見ても豊かなはずの彼らは、どこか鬱屈とした雰囲気をまとっていて、幸せそうには見えない。関心領域が広がってしまわないように、身体が感じているものに気付かないふりをしているからかもしれない。

日常の違和感は、主人公たちと使用人の緊張感、夫婦のすれ違いや泣き止まない赤ん坊として、少しずつ日常に亀裂を入れる。主人公が他の都市へと転任を命じられた際、収容所から離れられることに彼はどこか安堵しているのに対して、妻はアウシュビッツを離れたくないと主張する。理想の住まいであるとはいえ、周囲の環境を考えると彼女の現状への執着は異常に思える。おそらく彼女は、関心領域の外へ出るのが怖かったのだろう。自分たちを取り巻く状況を直視すれば、平和な楽園は崩壊してしまう。

映画のスクリーンもまた、ひとつの関心領域である。映画を観るとき、四角いスクリーンの外側の世界には意識を向けない。けれど、ポップコーンの美味しそうな匂いや、他の鑑賞者が身じろぎする音は感じている。関心領域の外側の人たちはいなくなったわけではなく、確かに側にいる。映画館という空間の中では当然のことではあるが、スクリーンによって、私は簡単に、すぐ近くにいる他者に無関心になってしまう。思えば、満員電車やスーパー、美術館、日常の様々な場所で、私は関心領域を狭めて他者の存在を透明化している。すぐ側の誰かに無関心になることは、その存在を感じていたとしても案外容易で、それを自覚すると自分のことが少し恐ろしくなる。

映画の中の家族も、私にとって他者である。史実に基づいていても、彼らが暮らす世界は閉じられていて、全ての言動が演出されている。彼らは私の関心領域の中にいるが、彼らの関心領域に私はいない。だから私は、どこか距離を置いて作品を観ていた。

映画の中盤、真っ暗な画面がしばらく続く。重なり合って響く阿鼻叫喚に、収容所での虐殺が想起される。映画を観ているうちに、気づけば主人公たちのように関心領域が狭まっていた私は、突如として安全圏から引きずり出された。暗闇の中で、収容所の人々の苦しみに思いを巡らせる。スクリーンに映されない、壁の向こう側の世界へと関心領域が拡張する。関心領域を広げたのは感覚だった。

物語の最後、所長を辞めた主人公は暗い建物で、ふと虚空を見つめる。それは第四の壁を超えてこちらに語りかけるような視線で、私たちが傍観者であることを許さないような気迫がある。階段を降りながら、彼は激しく咳き込みえづく。これまでの歪な生活の中で無視し続けてきた身体が悲鳴を上げているかのようだった。苦しむ彼の意識が未来へ飛ぶように、場面は現代のアウシュヴィッツ強制収容所に切り替わる。映し出されるのは、山のように積み上げられた靴や、壁一面の顔写真。収容所で、主人公たちの平和な生活のすぐ隣で、これほどの命が失われていた事実に呆然とした。しかし、関心領域を自室から世界へと広げてみると、私が文章を書いている今この瞬間にも、傷つき命を落としていく人々がいる。果たして、主人公たちと私に違いはあるのだろうか。彼らは鏡写しの私たちでもあるのだと、主人公のまなざしは私を射抜いていた。

今井花|いまい・はな
2001年生まれ。東京都出身。お茶の水女子大学文教育学部卒業。大学では美術史を専攻していたが、様々なかたちのアートや哲学、科学にも関心がある。浄土複合ライティング・スクール6期生。

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