環境法令 その13(公害分野-4)

先日、娘の保育所の芋掘りに参加してきました。地元の産業廃棄物処理業者が所有する畑を開放して親子での芋掘り体験の機会を提供してくれるという取組みで、社長以下数名の従業員の方も準備・説明・交通誘導・コミュニケーションを担って頂きました。
産廃業者や産廃施設というとネガティブなイメージを持たれることも多いですが、必要不可欠なものであり、CSR活動などにも積極的に取組まれている素晴らしい会社もあるという事を理解することが大切だと思いました。

少し前置きが長くなりましたが、
今回は熊本水俣病の原因がC社にあると分かっていながらなぜ被害者は抗議の声をあげたり訴訟に踏みきったりしなかったのか?
なぜ行政や国の対応が遅かったのか?

当時は高度経済成長の真っただ中で、国民の生活を豊かにするために経済最優先の風潮でした。
水俣市はC社の企業城下町であり、C社あっての水俣市という雰囲気だったようです。ちなみに水俣市の第2~6代の市長はいずれもC社の元工場長だったそうです。
そんな中C社に対して非難の声をあげれば当然強い反発にあいます。
何の落ち度もない患者の方々は声をあげたくても上げられず、C社に気兼ねをしながら我が子の縁談に差支えるとしてひたすら病気を隠そうとするといった事もあったそうです。

そして、市役所、市議会、商工会議所、農協、労働組合は一致して「原因が未確定である以上、工場排水を止めることは市の破壊になる」といった姿勢だったようです。
旧厚生省や旧通商産業省も前回示したとおりの対応で汚染は拡大し、問題は悪化する一方でした。

前回も触れましたが、国が原因をC社からの工場排水であると認めたのは発生から12年経った1968年でした。
そして、1969年6月になり、138名もの患者らはようやくC社を被告とした損害賠償訴訟を熊本地方裁判所に提起しました。そこから1973年3月原告勝訴(賠償金額約9億7300万円)の判決まで更に4年近くの歳月を要したのです。
(今回も出典元:北村喜宣氏著「環境法[第2版]」)

こういった裁判の結果をうけて、次々と公害関係の法律が整備されていきました。
1967年 公害対策基本法
1968年 大気汚染防止法
1970年 水質汚濁防止法(旧水質二法を一本化)
1971年 公害防止組織法
1973年 公害健康被害補償法
中でも1970年のいわゆる公害国会においては、経済優先であるとの批判から、公害対策基本法から「経済との調和条項」を削除しました。

この「調和条項」は他の公害関係の法律の中にも見かけられました。
次回はこのあたりについて触れてみたいと思います。

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