見出し画像

父の死、無宗教葬儀、遺すもの

 先日、父が他界しました。
 突然のことで葬儀が終るまではばたばたしていたので、そのあたりの経緯と、あとは父がやっていた短歌に関する話や、関連して思うことをつらつらと書いてみたいと思います。
 本記事は特に誰かに何かを主張するものではないので、少々とりとめのない文章になります。

経緯をつらつらと

検死と遺体返却

 10月7日(月)の朝に私のところに連絡が入りました。私は長野県飯田市に住んでいますが、父が亡くなったのは京都府宇治市の自宅マンションです。連絡を受けてから、親族に連絡を回しながら荷物をとりまとめ、仕事の関係にも断りを入れて京都へ向かうことになりました。
 通常、病院などで人が亡くなると診ていた医師が死亡診断書を書きます。持病があって担当医師がいるなら自宅で亡くなっても同じはずです。ただ、父の場合は直接死因になる傷病を医師が看ていなかったため、警察が事件の可能性を捜査するために遺体を回収することとなりました。
 私が父の自宅に着いた14時には、すでに関西圏の兄や叔母が先に来ていて、警察は撤収済みで遺体の無い状態でした。

 警察からは、何もなければ翌日の午後に遺体を返せるという話がありました。検察が血液検査で不審な薬物を調べたりするそうです。
 遺体を受け取ると言っても、一般人が手で持ち帰るわけにもいかないので、葬儀屋に運んでもらうことになります。つまり、それまでに葬儀屋に話を通して、遺体の受け取りに同行してもらう必要があります。

 関西圏で手広くやっている葬儀屋に連絡しました。警察からの遺体の返却日時は不確定なので、原則的には葬儀の日程もそのあとに確定となります。
 とはいえ、事件性が無いことは分かっているので、葬儀場と火葬場の仮押さえをしてもらうことができました。
 葬儀場を押さえるためには当然、葬儀の規模感を決定しておく必要があり、私たち親族はどういう葬儀をするのかを話し合ってから葬儀屋に連絡し、葬儀屋との会話の中で葬儀の日程を決めていきました。
 ただし、ここでは葬儀場の決定までで、具体的な葬儀プランについては遺体が帰ってきてから対面で打ち合わせという感じです。

 翌日の10月8日、午後2時くらいに返却可能という連絡をもらうことができました。宇治警察署に行き、検死結果を聞いたところ、虚血性心疾患との診断で、死亡時刻は「6日の夜遅く」という内容でした。実際には日付が変わっていたんじゃないかとも思いますが、そのあたりは不明で、命日が6日になるのか7日になるのか微妙な感じです。
 遺体を葬儀屋の車で自宅に帰してもらいました。マンションのエレベーターはストレッチャーを入れるため内部の扉を開ける必要があり、駐車スペースなども含めて管理人とやりとりしました。

 また、警察署のあとで検死をしてくれた医師の病院に行って「死体検案書」というのを受け取る必要があります。これは一般的な死亡の際の「死亡診断書」に代わるもので、すぐに何枚かコピーを取っておくと良いです。

無宗教の葬儀

 遺体を無事自宅のマンションに寝かせると、もう夕方です。間を置かずに葬儀屋との打ち合わせとなりました。事前にも伝えていたのですが、葬儀は家族葬レベルで、かつ無宗教で行いたいという話をしました。

 この「無宗教」ですが、父が生前に兄に明言していた希望です。
 父はかつて、実家のあった地域の寺との檀家関係を解消し、墓を引越しして永代供養するという面倒なことを頑張って実行しました。母(※私の母、父の妻、10年以上前に他界)のほうの墓についても永代供養をして管理費を数十年先まで納めてあるという状況で、そうやって寺との関係を清算してきたわけで、今さら新たなしがらみを作りたくないという気持ちが想像できます。
 しかし、父は「無宗教で」と告げたのみで、実際にどのような葬儀をやってほしいとかいう希望は一切ありませんでした。そのあたり親族(主に兄と私)で話し合い、通夜なしで告別式のみとし、告別式は法要の代わりに葬儀の参列者で父の思い出を語り、あとは通常の葬儀と同じように棺桶に花を入れたりして火葬ということとしました。

 実際のところ、葬儀屋が用意しているプランは仏式と神式のみで、無宗教葬のプランというようなものは無く、単に「宗教者を呼ばない」ということでしかありません。
 ただ、葬儀場の用意も含めて告別式のタイムキーパー的な部分は面倒を見てくれます。なんとなく仏式の一般的な葬儀を踏襲しながら、お坊さんのお経が無い葬式として執り行われる感じです。
 少数ながら外部から来てくれた人もいるので、「お焼香」などは私は不要だと思いつつも、促されるまま慣習に則る意味で行いました。
 この辺り、参列者が何もしないのもセレモニーとして成立しづらいので、無宗教の何かを代わりにやりたいのであれば事前(生前)に練っておく必要があると思います。

 なお、葬儀は遺体を受け取った日(8日)の翌々日(10日)に行いました。9日は、葬儀屋が役所への死亡届などの手続きをしていて、火葬許可書などの面倒を見てくれます。
 無事に宇治の斎場で火葬が終ると、「遺体と火葬許可書」が「お骨と埋葬許可書」に変わります。RPGのクエスト進行みたいですね。

葬儀以降のこと

 葬儀が終るとひと段落です。ただ、家族葬ということであまり各所に連絡を回していなかったので、父と関係のあった人たちへの連絡は早々に行う必要がありました。
 あと、必要なのは父の資産に関係する処理です。

 資産に関して、父が残していた資料や通帳などの確認は葬儀の前に親族で行っています。その後やらなければいけないのは、年金や保険関係の手続き、クレジットカードを止めたり、いろんなものを解約したり……。
 父の自宅の整理も含めて、このあたりの面倒なことは京都に住む兄に任せてしまいました。私は地理的に離れているため、葬儀が終ると長野県に帰宅して、あとは電話で話したりするくらいという状況です。相続に関する部分や父の自宅から物を回収するあたりはいずれ改めて京都に行く予定をしていますが、ごたごたを引き受けてくれている兄に感謝です。

人が遺すもの

歌集

 父は大阪で高校の教員でしたが、退職後は短歌を趣味にするようになりました。そして、自費出版で2冊の歌集を出しました。Webで「丸山順司」を検索するとちゃんと『チィと鳴きたり』、『鬼との宴』という二冊の表紙を見ることができます。
 しかし、この歌集にどれほどの価値があるのか私にはよくわかりません。後世まで読まれる文豪ならいざ知らず、自費出版の歌集などは短歌での繋がりのある知り合いくらいしか読まないでしょう。いくつかの図書館に寄贈したはずなので図書館には残るわけですが……。

 市場価値が無いために自費出版で出している歌集。文化的にも特段の何か社会に対する影響力などは無さそうです。
 一方で、著者個人にとっては大きなもの。数年のうちに書き続けた何百もの歌の中から選りすぐってまとめ上げた父の本は、客観的に見てもよくできていると思います。もし読んでくれる読者があれば、いくらか心に留めてもらえるかもしれません。
 父は、自分の歌集が自分の死後にどういう価値を持つと考えていたのでしょうか? とくに価値はない、生きてる間の自己満足と考えていた可能性もありそうですが。

創作への想い

 世の中には、それなりに「創るタイプの人」が存在します。
 noteの記事なんかは全て何かしらアウトプットする意欲のある人が書いているものですが、中でも一部の著者の記事を読んでいると「この人は文章に魂を宿らせようとしている人だ」と感じます。
 かく言う私も、その種の人間であると自負しています。……そう見えているかどうかはわかりませんが。

 余命が半年あるいは数年などとわかったと仮定したとき、余生の過ごし方として何かを創作することが候補に入って来ます。余生を楽しく過ごしたいと思うのと同じかそれ以上に、作れるものを作っておきたいと考えたりします。
 しかし、そうして遺された創作物にはどれだけの価値があるでしょうか? 考えると、生きている作者の手を離れてなお価値を持つ創作物というのはなかなか高いハードルであるように思えます。
 自分の存在の小ささを感じます。
 この話は、何かを作るタイプの職業としてIT分野のデベロッパーになった自分にとって、労働の成果が期待していたほど後世に残りそうにないという現状とも関係します。

自分史を書いてみるか

 世間の基準で価値を持つ作品を残すのはかなり難しいですが、一方で親しい人にとって価値のあるもの、本人と密接に関連して価値を持つものというのは、簡単に作ることができます。
 例えば、スマホなどで撮った写真を厳選してアルバムにしておくと、当人が死んだときにその人生を偲ぶ目的ではたいへんありがたいものです。

 自分の葬儀で自分の人生を振り返ってもらうのに便利な「自分史」を書くというのはどうでしょうか?
 世間的には大して価値のないものになるかもしれませんが、身近な人々がそれを見ればおもしろい、というものは作れるのではないでしょうか。
 資産や社会的なつながりを取りまとめたエンディングノートを作るのと並行して、自分史を書いてみるというのも一案だなと感じています。

父のホームページ

 最後に、父のホームページを紹介しておきましょう。

 ホームページという言葉がすでに死語になっていますが、こうした手打ちHTMLでの個人サイトは、やはりホームページという言葉が時代性を表すように思います。2012年頃、当時まだ学生(7回生くらい?!)だった私が作成しました。
 HTMLソースを見ると、XHTML1.0の時代であることがわかります。私はXHTMLを学んだので、いまだにHTMLがXML記法に準拠しないことを口惜しく思っています。
 コンテンツはときどき追加して更新しましたが、デザインやスクリプトはほとんど手を加えていません。(一時期スライドショーのコンテンツを掲載し、削除しました) こうして10数年経ってもWebサイトの表示が一切崩れることなく見れるのは、当時の自分が正しいコーディングをしていた証左でもあり、感慨深いところがあります。

 トップページに父の訃報を掲載したとおり、サイトは私が管理している状態です。無料のレンタルサイトなので1カ月ほどするとまた広告が表示されることになりますが、今後更新する予定はありません。
 古いアクセス解析が今でも一応は機能していて、なんと毎月600アクセスくらいあるようです。ユニークアクセス数は数字があるものの信用できないのでなんとも言えませんが、Web上の集合知の末端として生きているサイトだと思います。
 短歌の鑑賞を書いたサイトというのは、趣味者が高齢であることも関係して、あまり多くありません。一定の価値を持ったサイトだと判断し、今後もしばらくは維持したいと思っています。


いいなと思ったら応援しよう!