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オリンピックの光と影

オリンピックはスポーツのキュレーションサイトのようなもので、毎日テレビを着ければ色々なスポーツを観戦できる、それ自体は決して悪いことではないのです。
オリンピックを見て感動した子どもが成長してメダルをとるように、誰かに希望と夢を与えるということはとても意義のあること。

オリンピックは平和の祭典。この期間中は戦争をしてはいけない。

と、子どもの頃に大人から聞いたけど、嘘でした。

ウクライナとロシアは戦闘を続けているし、イスラエルからのガザへの攻撃も続いている。それだけではない、紛争が続いている地域は多くあります。

パレスチナでは300人を超えるアスリートが命を奪われ、オリンピックに参加する選手団は10人にも満たない。一方で、イスラエルの後ろ盾となっているアメリカは、開会式では船から溢れんばかりに選手が乗っていました。
こんな明らかな不均衡、なぜもっと大きな話題にならないのか。オリンピックが「平和の祭典」であるならば、真っ先に取り上げるべき出来事ではないか。

私は、リオ五輪のときに「立ち退きを強制された住民から反発の声が上がっている」というニュースを見たときに、おかしいなと感じた。でもまだ大きな危機感を覚えるほど、関心を払うことができなかった。本当に浅はかだったと思います。
東京五輪が開催されたことで、オリンピックの欺瞞や利権が日本国内に住んでいても見えやすい形になり、多くの人の関心を引いたことは、皮肉なことですが大きな意義のあったことと思います。
パリ五輪でも、多くの弱い立場の人が立ち退きを要求されました。弱い人々の犠牲の上に成り立つオリンピックが、平和の祭典であるはずがない。

ハマスの最高幹部が殺害された日、たまたまニュースを見ていました。NHKのニュース9だったと思います。
現地レポーター、スタジオ共に、神妙な顔で「国家間の緊張が……」「対立は避けられない」と話した後に、サッとカメラアングルが変わって「続いて今日のオリンピックです!」とにこやかに切り替わった。
恐ろしかった。狂ってんのかこの世界は。

今、人が死んで、これからも多くの人が命を失い、奪われそうというニュースの後に、にこやかに明るくオリンピックの話。見たくないものからは目を逸らしたい、逸らさせたいという強い意思を感じました。

選手に罪はない? そう言いたいなら、イスラエル選手との対戦で事実上棄権をするなど、世界最高峰とうたわれる大会で選手が成績を残すことよりも政治的立場を表明することを優先させなければならないことにも目を向けてほしい。

見たくないものから目を背けることは簡単だ。
そして、見ようとすることもまた簡単だ。
あまりにもショッキングだからここには貼らないけど、少しでいいから「GAZA」で検索してみてほしい。信じられない現実がそこにある。

戦争をするな、虐殺をするな。あまりにも当たり前のことだ。
平和とは、何もない状態ではない。人々の願いがあり、不断の努力によって保たれるもの。
当たり前のことを言い続けよう。言えなくなった時にはもう遅い。ずっと言い続けよう。

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