琳派とは?
皆さんおはこんばんにちは!
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先週は浮世絵について色々と調べたり書いたりしたんですが、あれからというのもの、修学旅行で偶然みたやつや、海外の美術館でチラ見したやつなど、そこでしか見れない貴重な浮世絵の品々を何度か見てきたことを思い出し、当時は特に何も分かっていなかったので、「あ、日本画だ」程度で数秒だけ見ていた自分を殴りたいと思った今日この頃です。
そんな浮世絵ですが、色々と作品を漁っていると、決まって「これは琳派の影響もあり、、」という文言が見つかり、「琳派」というキーワードを多く目にします。お恥ずかしいことに、最近までこれを「りんは」と読んでいましたが、正しくは「りんぱ」ということで、何事もまずは読み方から入らねばと思いました。
琳派における有名な作品というと、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」などが挙げられるでしょうか。自分はこの風神雷神図さえも「え?これも浮世絵の一種でしょ?」と考えていましたが、そんな琳派は、時代の流れとしては浮世絵よりも前に始まった様式でありつつも、明確な師弟関係によって受け継がれたわけでもない、特殊な文化であり、読み方も時期も曖昧な自分が0から琳派に関して書いていこうと思います笑
琳派とは?
琳派というと、派が付いているので、流派のように思えるかもしれませんが、絵画の流派ということではないそうです。またその名前も、昭和のある時期までは「光琳派」と呼ばわれたり、「宗達光琳派」と呼ばれることもありましたが、昭和47年に東京国立博物館で開催された「創立百周年記念展『琳派』」以降、この名前が定着したと言われています。
つまり、昔の人々が「我々は琳派である!」と表明したわけではなく、近代になって美術の歴史を系統立てしいく研究が進む中で、ある時期の作品群や美術様式のようなものをまとめて琳派と呼ぶようになったという言い方が正しいかもしれません。
そんな琳派ですが、誕生したのは16世紀の終わり、江戸時代が始まる直前に京の都で誕生したと言われています。この時期、日本では貨幣経済の発展が見られ、京都の町には公家(朝廷に仕える貴族)でも武家(武士の集まり)にも属さない裕福な人たち、町人が生まれ、この町人たちで構成されたグループ、「町衆」と呼ばれる人たちが現れました。
この町衆たちを相手に絵や美しい紙製品を売る "絵屋" という商売が生まれ、その中でも一際人気を博したのが、「俵屋」と呼ばれるという絵屋で、そこの主人が俵屋宗達という絵師だったのです。同時期には刀の鑑定や研磨を生業とする家に生まれたマルチアーティスト、本阿弥光悦が生まれ、宗達が絵を描いた美しい和紙に光悦が書を嗜めるという粋な関係性があったと言います。(めちゃかっこいい、、)
琳派というと、この俵屋宗達、本阿弥光悦の二人が創始者の立ち位置と言われることが多く、その二人の誕生から百年後、江戸時代も中期に差し掛かり、世も安定するようになってから町衆が支える文化も豊かさを増していきましたが、そんな時期に活躍したのが尾形光琳と、弟の尾形乾山です。
このように、俵屋宗達と、宗達の描いた作品から強く影響を受けた百年後の絵師、尾形光琳という一連の流れから流れから琳派の大筋ができたと言われます。
光琳の活躍からさらに約百年経つと、舞台は江戸へ移り、酒井抱一、さらにその弟子で染物屋出身の鈴木其一らが、宗達や光琳の作品を盛んに模写したり、彼らの美意識や技法を継承した作品を生み出していきます。この酒井抱一と、鈴木其一によって、京で生まれた琳派が江戸で花咲くという流れですね。
こうしてみると、西暦1600年前後から、おおよそ百年ごとにスター級の絵師が誕生することによって脈々と受け継がれてきたのが琳派の特徴であり、狩野派(日本絵画史上最大の画派で、室町時代中期から江戸末期まで400年にわたって活動した専門画家集団)のように、血縁や指定関係のように直接的に受け継がれていったわけではないのも面白いところです。
ひたすら百年前の絵師を勝手に師と仰ぎ、作品を模写し自分なりの作品で先人に応えようとするアクションの連続から生み出されたものであり、こういう関係を私淑というそうですが、絵画だけを参考に一つの美術様式が成立するほどの作品というのは一体どういうものなのでしょうか。。?
琳派の様式とは
琳派の美術様式を一言で言い表すとどんなものかというと、美術史家の小林忠先生が言うには、「贅沢」に尽きるそうです。水墨画や金地の作品も多い中、全体として心が豊かになるような、品のある描かれ方という意味での贅沢ですね。
確かに俵屋宗達の「風神雷神図屏風」を見ても、風神、雷神が対となって向き合っている構図や、ふんだんに金地が使われているものの、全ての画面を描き切らない「間」の使い方、雲を表す「たらし込み」の技法(絵の具が乾かないうちに他の色を垂らすことで、紙の上で絵の具が絶妙な加減で混ざり、滲ませる技法)など、さまざまな技術がふんだんに盛り込まれた荘厳な作品となっています。
「犬図」も同じ宗達が描いたとは思えないほど、愛らしく描かれており、画題も技法も多様な点は、琳派の特徴の一つといえそうです。
先にも述べましたが、元はと言えば、上層町人である町衆、裕福な商工業者からの注文によって制作されたものだったため、町衆たちの豊かな生活の中で使用される、屏風やセンス、硯箱、食器など日用品に施されることが多かったようです。日常を飾る美意識のようなものも琳派の特徴でしょうか。
日常を彩るという面では、描く対象も身近なものが多く、自然や動植物を描いており、普段から目にしているものを楽しく、愛らしく、美しく描くというのが琳派らしさかもしれません。酒井抱一の「夏秋草図屏風」に描かれている葛やススキも、今でも珍しいものではない、いわば雑草とも言えるものが、これほどまでに美しく表現しています。
表現としては、目に優しく、硬いものがないのが特徴で、輪郭線を極度に排除しています。鋭い輪郭線で囲った中を色で埋めるのではなく、木の枝ひとつ取っても、一本の筆で膨らみを持って描かれているんですね。
琳派の特徴的表現、技法はほとんどが俵屋宗達の考えたものとされていますが、第二世代である尾形光琳らの功績も多く、意匠、デザインなどは宗達の延長線上で育まれていったものと言えます。たとえば、光琳の「燕子花図屏風」は、実家の呉服店の商品デザインから派生したものと思えるくらい、洗練されたデザインが絵画の中に取り込まれています。
大陸や半島から文化の大波が押し寄せてくる、東のハズレにある小さな島国の日本では、どうしても異種異国の文化の影響が強くなってしまいますが、それらを自分たちの納得する形にしていく流れが弥生時代から育まれ、鎖国状態の江戸時代の日本にあって熟成させたものの集大成として琳派が生まれたのかもしれません。
謎の人物、俵屋宗達の商才
ざっくりと琳派の成り立ちの歴史とその特徴について書いてきましが、最後に謎中の謎の人物俵屋宗達に少し触れたいと思います。同時期の祖、本阿弥光悦が生まれたのは、永禄元年、1558年、代々刀の鑑定や保守を請け負う家の子として生まれたわけですが、一方の宗達はその出生すら謎の人物とされています。
京都の絵屋「俵屋」の主人ということだけしか分からず、没年も素性も分かっていないそうですが、絵師という才の他に、ビジネスマンとしての才も持ち合わせていたようです。絵屋というショップオーナーだった宗達は、売れる商品を安定供給するために、"工房制作"という新しい創作スタイルを生み出し、
自らは総指揮を取り、実際の作業は弟子に分担させて絵を完成させることで、多くの人が購入しやすい体制を整えました。
その工房制作の商品に、今でいうブランドのロゴマークのような「伊年」という印を押して、宗達工房で作られた商品のブランド化も同時に図ったといいます。
また、宗達が得意とした「二曲屏風」ですが、これはちょうど正方形のような形で、他の画派では取り入れられなかった、琳派の専売特許でもあります。絵屋の重要顧客である町衆の家には、六曲一双屏風よりも、小ぶりな二曲一双の方に需要があることを宗達は見抜いていたのかもしれません。
ちなみに、この大きな円の中に「伊年」と書かれた落款(筆者の署名、印)ですが、仮名風にはイネと読むこともでき、この大きな円は俵を表しているとされ、俵の中にイネ = 稲という見方ができます。これは、俵屋という屋号への想いや、稲が豊潤に育ちますようにという願いが込められているなど諸説ありますが、このような意味の掛け合わせも面白いところです。
俵屋が手がけたで!という落款がない「風神雷神図屏風」が、後の尾形光琳と酒井抱一に大きな影響を与え、琳派の基礎を築くというのもまたさりげない格好良さといいますか。。
琳派の美意識と価値付け
琳派の成り立ちをざっと振り返りつつ感じたことは、「琳派かっけぇ。。!」ということで、一体何を学んだんだと言わんんばかりの浅はかな感想になってしまいましたが、細かい成り立ちも大事ですが、シンプルな格好良さ、厳格さ、上品さが見て取れる作品が多く、理屈抜きの作品力こそ琳派の醍醐味だなと感じました。
町衆の人々から醸成された文化ということも初耳でしたが、当人である絵師だけでなく、依頼主である彼らの美意識も粋といいますか、日常品に機能性だけではなく、美しさや品を求めるその姿勢は素敵に思えました。
琳派の生まれ故郷である京の町が持つ特徴も面白く、政治の実権が東の江戸へと移っていき、残された都のアイデンティティとして、文化遺産を蘇らせるという潮流の中で育まれた町である一方、江戸では全国から参勤交代の武士や労働者が出入りし、長崎に到着する外国のものや情報が届けられ、色々な文化が混ざり合う広がりを持った町として存在感を放ったそうです。
文化構造としては深い京都と、文化が入り乱れる広い江戸という二つの町が存在する日本という国に居れてよかったなと思いますし、広い方の江戸の町の延長線上の場で生まれた自分としては、改めて京の町を訪れたくなりますね。。
また、俵屋宗達に見られる画才だけに止まらない、商才も見事で、作品としてのクオリティはもちろん大前提ですが、どういったメディアの形に需要があるのか、価格だけでないブランド化の図り方や、需要に応える製造体制の構築など、作品を売る過程もしっかりと視野に入れて作品作りをしていたという点は、今も昔も変わらず重要なことなんだと実感しました。
そういう意味でも、日本古来の絵画を勉強することは、美意識を養うことにも繋がりつつ、お金が無ければ続けられない制作活動をどう向き合い、いかにして今日まで作品が残り続けたのかという"価値づくり"に関しても勉強になると思ったので、引き続き日本、海外問わず色んな作品に触れていければと思いました!ではまた!