草木と生きた日本人 朝顔
一、序
さ百合花 後も会はむと 思へこそ 今のまさかも うるはしみすれ (『万葉集』巻十六・四〇八八)
(小百合の花のやうに、後に会はうと思ふからこ、今のこの瞬間を楽しみたいと思ひます)
大伴家持の歌です。前回、家持そしてその叔母である坂上郎女の歌を紹介し、古へ人が百合の花をどう見てゐたのかを記しました。
私も、真岡鐵道のSLもおか号の車窓から、真岡や茂木の野に咲ける姫百合の花の美しさをたびたび見て、古へ人のことを思ひ起こしました。
梅雨も明けて、八月となりました。季節はいよいよ「夏本番」ですが、度々記してゐますやうに、万葉の古へは秋です。
前にも指摘したやうに、この頃の歌は七夕に関するものが多く花や草木があまり出てきません。しかし、秋には秋を代表する七つの草花がありました。覚えてゐますか。次の二首です。
秋の野に 咲きたる花を および折り かき数ふれば 七種の花 (巻八・一五三七)
萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花 (巻八・一五三八)
それぞれ山上憶良の歌、いはゆる秋の七草を歌つた歌ですね。今回はその中でも朝顔の花について学んでいきませう。
二、朝顔の花
読者の皆さまが小学生だつた頃、学校で朝顔を育てた記憶がありませう。私もさうです。また、私の茅屋の近くでは毎年、朝顔市が開かれて、多くの人で賑はひます。今年も盛況でした。
その朝顔について、いつものやうに『日本国語大辞典』で確認してみませう。
「ヒルガオ科の一年草。アジアの原産で、日本で園芸植物として発達し、江戸時代、嘉永・安政年間(一八四八−六〇)には非常に多くの品種が作られ、薬用としては平安時代初期から栽培されていた。茎は左巻きのつる性で物に巻きつき、長さ二メートル以上になる。全体に粗い逆毛が生えている。葉はふつう三裂し、長い柄があり、互生する。夏の早朝、直径一〇~二〇センチメートルのじょうご形の花を葉腋に一~三個つける。花は早朝開花し、午前中にしぼんでしまう。花の色は品種によって白、紅、青、紫など。また、それらが交じりあって縞や絞りの模様をつくるものもある。にほんあさがお。しののめそう。牽牛花。かがみぐさ。蕣花。」
とあります。
今、人口に膾炙してゐる朝顔は、平安時代の頃にさう呼ばれるようになりました。その朝顔のわが国への伝来は、奈良時代の末期に遣唐使が種を支那から持ち帰つたものが初めとされます。
万葉の時代は、朝顔といへば今の朝顔ではありませんでした。必ずしも実態は確かではありませんが、山上憶良の歌にある朝顔は、今の桔梗と考へられてゐます。
三、桔梗
桔梗を『日本国語大辞典』で見てみませう。
「キキョウ科の多年草。山野の日当たりのよい草地に生え、観賞用に栽培もされる。高さ〇・五~一メートル。茎を切ると白い乳液が出る。根は多肉で太く、黄白色。葉は互生し、長さ五センチメートル内外の長卵形で先はとがり縁に鋭い鋸歯があり、裏面はやや白色を帯びる。八~九月、茎や枝の頂に直径四~五センチメートルの青紫色の花を一~三個開く。花冠はやや浅い鐘形で先端は五裂して開く。萼は緑色で浅く五裂する。おしべは五本、めしべは五本で先端は五裂する。果実は熟すると先端が五つに裂ける。漢方では根を煎服して袪痰・肺炎・中耳炎薬などにする。また、若苗と根は食用にもなる。秋の七草の一つ。園芸品には二重咲き、白花品などがある。ありのひふき。あさがお。おかととき。きちこう。」
とあります。
桔梗も愛された花で、美濃国の土岐氏は、その花を家紋にしました。土岐氏出身を称する明智光秀も、桔梗の紋だつたのはよく知られてゐませう。さらに、安倍晴明が使用した五芒星は桔梗印と呼ばれ、晴明神社では神紋となつてゐます。
万葉の歌を見てみませう。
朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕影にこそ 咲きまさりけれ (『万葉集』巻十・二一〇四)
(朝顔の花は、朝露を負ひて咲くとは言ひますが、夕陽に照らされたときこそ一層咲きにほふものですナア)
朝に咲く姿よりも、夕方の方が一層美しいと詠んだ歌です。なんとなく共感できる気がしませんか。誰が作つたのかわからない歌です。
朝顔は、東歌にも詠まれました。
わが愛妻 人は離くれど 朝顔の 年さへこごと 吾は離かるがへ (巻十四・三五〇二)
(私のいとしい妻を人は離さうとするけれども、朝顔が毎年からまるやうに、どうして離れることができませう)
相聞歌です。「年さへこごと」は意味の不明な表現ですが、「年さへくごと」の意にとつて解釈しました。さうすると、「毎年からまるやうに」といふ意味になります。この歌も前の歌と同じく、誰が作つた歌なのかわかりません。
これらの歌は、桔梗を詠んだものと考へられてをり、今の朝顔ではありませんが、後の時代はどうでせう。
四、後の時代の朝顔
まづは、この歌を見てみませう。
我ならで 下紐とくな 朝顔の 夕かげ待たぬ 花にはありとも
(私の手以外で下紐をほどかないでくださいね。朝顔の花が夕方を待たない花であつたとしても)
これは『伊勢物語』に収められた歌です。『伊勢物語』の時代は平安時代中期です。
なほ参考までに、当時は共寝をした男女がお別れの際に、お互ひの下紐を結び合ひ、次に会ふまでにほどかないやうに約束する風習がありました。いふまでもなく、この時代は妻問婚でした。
次の歌を見てみませう。
草枕 ねくたれ髪を 掻かき付けし その朝顔の 忘られ
ぬかな
(草を枕にして夜を明かした旅の途中で寝乱れた髪を櫛でなでつけた、朝顔の花のような可愛いその朝の顔が忘れられません)
平安時代末期に成立した、『続詞花和歌集』に収められた歌です。歌中の「朝顔」は「朝の顔」と花の「朝顔」との掛詞になつてゐます。
『伊勢物語』のころは、まだ万葉の名残があるやうに感じられますが、後の時代の歌になると万葉の俤があまり感じられなくなるやうに思ひます。しかし、花を愛し、その美しさに感じ入り、親しむ気持ちは、万葉の時代も、平安時代も、そして現代においてもまつたく変はらないでせう。
私は桔梗の美しさも好きですが、朝顔の懐かしさも好きです。この時期、各々の家の前には朝顔の花が咲き、目を楽しませてくれます。また、江戸時代の終はり頃、酒井抱一の弟子である鈴木其一の描いた「朝顔図屏風」(メトロポリタン美術館所蔵)は見事なものです。
そして朝顔といへば、千利休の故事を思ひ出します。豊臣秀吉を迎へるにあたり、朝顔を全て摘み取り、茶室に一輪だけ生けました。摘み取つたことを訝しんだ秀吉は、茶室に入りいたく感動したさうです。そして、そこには利休の茶の心がある、さうです。
私には利休の茶の心はわかりませんが、一民家に咲く朝顔に清涼を感じることが、たびたびあります。朝顔、そして桔梗はどこにでもある花ですが、その伝来や、古へ人の思ひを知るとまた違つた見方ができるのではないでせうか。
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