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【児島虎次郎】日本を代表する印象派の画家

岡山県倉敷市にある大原美術館は、日本で初めて設立された西洋美術中心の私設美術館として知られています。このミュージアムを創設した大原孫三郎は、洋画家の児島虎次郎と深いつながりがありました。

本記事では、児島虎次郎の人生や作品について解説します。彼が残した作品は多数存在しますが、今回は《朝顔》に焦点を当てました。
これから大原美術館に行く予定がある人、児島虎次郎の略歴を知りたい人は、ぜひ最後までご覧ください。



児島虎次郎とはどんな人物?

児島虎次郎は明治時代から昭和時代にかけて活躍した洋画家です。岡山県倉敷市にある大原美術館の礎を築いた人物であり、その功績はいまも語り継がれています。
ここでは児島虎次郎がどのような人生を送ったのか解説しましょう。

少年時代から画才を発揮する

児島虎次郎は1881年に岡山県成羽町(現在の高梁市)で旅館兼仕出し屋を営んでいた「橋本屋」の次男として生まれました。
幼少期から画才を発揮し、宿泊客として橋本屋を訪れた松原三五郎という人物が虎次郎の家族に「この子を絵描きにしなさい」と勧めています。しかし祖母は絵で生計を立てる厳しさを知っていたため、孫に絵画修行をさせるつもりはありませんでした。

小学校に入学した虎次郎は、新たに設置された図画科で絵の基礎を学びます。虎次郎は絵画の魅力にのめり込み、勉学に励みました。しかし高等小学校卒業後は進学できず、家業の手伝いに従事することになります。

学びへの意欲は衰えを知らず、虎次郎は仕事を早く終えて絵を描いたり英語を勉強したりしていました。夢を諦めず、いつか本格的に絵を学びたいと情熱を燃やしていたのです。
そんな虎次郎を見ていた同郷の画家が虎次郎を応援し、彼に絵の手ほどきをします。16歳になる頃には独学で祖母の肖像画を描くまでに成長したのでした。

親戚や知人らの熱心な説得により、孫の絵画修行を認めなかった祖母もとうとう折れました。虎次郎は上京を許され、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の西洋画科に合格します。

ヨーロッパで印象派を学ぶ

虎次郎の運命を大きく変える出会いが訪れたのは1年次の時です。成羽町出身の弁護士が虎次郎を大原家の奨学生候補として推薦してくれたのでした。大原家は岡山県で指折りの実業家であり、将来ある若者たちを支援していました。
紹介状と作品を携えて大原家を訪れた虎次郎は、そこで初めて当主の孫三郎と対面します。孫三郎は虎次郎の人となりや確かな画才を認め、奨学金の支給を決定しました。

大原家の支援を受けた虎次郎はこれまで以上に絵の勉強に励み、2年の飛び級を経て東京美術学校を卒業しています。
1908年に東京府が主宰する勧業博覧会美術展に出品した作品が宮内省に買い上げられ、これがきっかけでフランス・パリへの留学を認められました。

しかしパリは肌に合わなかったのか、滞在期間はわずかでした。郊外のグレー村に制作拠点を移し、友人の画家たちと研鑽に励みます。
のちに旅行で訪れたベルギーをいたく気に入った虎次郎は、ゲント美術アカデミーに入学して光の表現を追求しました。
フランス・ベルギーの両国で明るい色彩の画風を身に着けたことが、虎次郎の画業に大きな影響を与えたのです。

大原美術館の礎を築く

虎次郎は1909年に日本へ帰り、翌年に孫三郎夫妻の仲介で社会実業家の娘と結婚しました。
ヨーロッパ留学を経験した画家によくあるように、虎次郎もまた欧州と日本の風土の違いに戸惑います。

帰国してから数年ほどスランプに苦しむも、その間に中国・朝鮮半島を旅行して見聞を広めています。1911年には欧州留学中から帰国後にかけて描いた作品を個展に出品し、好評を得ました。

虎次郎は大原家の援助で再びヨーロッパへ留学します。その際、孫次郎に「海外の美術作品を収集したい」と申し出ています。日本の美術界を発展させるべく、外国の美術品を集めたいという意図があってのことでした。

虎次郎のヨーロッパ滞在は三度にわたり、のちに大原美術館のコレクションとなる芸術品を集めました。エル・グレコの《受胎告知》やゴーギャンの《かぐわしき大地》など、貴重な作品の数々を購入して日本に持ち帰っています。

1924年、虎次郎にとって生涯で最後の大作となる作品の制作を依頼されました。それは明治天皇の人生を壁画にする一大プロジェクトで、またとない名誉でした。
虎次郎はこの仕事に全精力を注ぎ込み、資料の調査や関係者への聞き込みなど入念に準備を進めます。

しかし残念ながら、虎次郎は絵の完成を待たずに47歳で亡くなってしまいます。多忙を極めた結果、疲労がたたって病気に倒れたのでした。
虎次郎の遺志を継いだ吉田苞(しげる)が壁画を完成させ、現在は明治神宮聖徳記念絵画館に収められています。

《朝顔》の魅力

『朝顔』は1920年に描かれた作品で、現在は大原美術館に展示されています。
絵のモデルとなったのは妻といわれており、虎次郎のアトリエの入り口付近に植えられていた朝顔を手入れする様子を絵筆で切り取りました。

フランスやベルギーで印象派の光の表現技法を学んだ成果がいかんなく発揮されており、画面全体に柔らかな色彩があふれています。
朝顔を照らす陽光、地面に落ちる朝顔の影、どれを取っても実に見事としか言いようがありません。

虎次郎が妻に向ける愛情に満ちたまなざしも同時に描きこまれているのかもしれません。
少し背伸びをして妻が朝顔に水やりをしている様子は、おそらく虎次郎にとって見慣れた光景だったのではないでしょうか。

日本人に愛されてきた朝顔

朝顔は古くから日本で愛されてきた植物です。小学校の授業で栽培した経験のある人は多いのではないでしょうか。
原産国は中国で、奈良時代に日本へ伝来した当初は薬草として使われていました。やがて花の美しさにも注目が集まり、品種改良でさまざまな朝顔が誕生しています。

大きな花弁を咲かせる大輪タイプ、葉と花が独自に変化した変化咲きタイプなど、その種類は多岐にわたります。花の色は青・白・紫などのバリエーションがあり、基本的にツルが長く伸びる傾向にあります。

朝顔が鑑賞用の花として親しまれるようになったのは江戸時代に入ってからです。
関東・関西で品種の良し悪しを競う「朝顔番付」が催され、愛好家たちは手塩にかけて育てた自慢の花を品評会に出品しました。

まとめ:絵筆で光の美しさを表現した画家

大原美術館の歴史を語るうえで児島虎次郎の存在は欠かせません。彼の盟友だった孫三郎は、虎次郎の死を悼んで美術館の設立を決意します。

大原美術館が竣工した当時は日本全体が不況に苦しんでおり、孫三郎が経営する会社の業績も思わしくありませんでした。資金難を押してでも美術館を造るところから友情の深さがうかがえるでしょう。

エル・グレコの《受胎告知》は、日本にあること自体が奇跡といっても過言ではない希少な作品です。もし大原美術館を訪れる機会があれば、《朝顔》とともに鑑賞してみてください。


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