琳派を代表する天才絵師・尾形光琳【経歴や代表作について解説】
尾形光琳は江戸中期に活躍した絵師です。
光琳といえば、「燕子花図屏風」や「紅白梅図屏風」などの作品を描いた人物というイメージが定着しているでしょう。
しかし人生や暮らしぶりなどについては、よくわからない人が多いかもしれません。
芸術鑑賞を楽しむコツは、アーティストのバックボーンを理解することです。
どんな人となりなのか、なぜその作品を制作したのか。
描かれたものより、描かれていない要素のほうが重要なのです。背景にあるものを知れば、より深く楽しめますよ。
この記事では、琳派の立役者である尾形光琳について解説します。彼の生き様をひも解きつつ、3つの代表作を厳選して紹介していきます。
日本美術や日本史が好きな人は、ぜひ最後までお付き合いください。
1. 尾形光琳の経歴
まずは尾形光琳の人生を大まかに解説します。
彼の作品を知るうえで欠かせない部分ゆえ、知っておくと役立つでしょう。
京都有数の呉服商に生まれる
1658年、尾形光琳は雁金屋の次男として誕生しました。
生家はいわゆる宮廷御用達の呉服商であり、京都でも名の知れた大店。東福門院(徳川2代将軍・秀忠の娘)を筆頭に、大口の顧客を抱えていました。
つまり経済的に潤っており、光琳たち兄弟は恵まれた環境で育ちます。
ここで尾形家の系譜について触れておきましょう。
光琳の曽祖父・道柏(どうはく)は、本阿弥光悦の姉を妻に迎えています。したがって光悦と光琳には縁戚関係があったのです。
さらに道柏は浅井長政の家来筋だったため、徳川家・豊臣家・織田家とも密接に結びついていました。織田信長の妹であるお市の方の娘たち(茶々・初・江)などに売り込み、太いパイプを作ったというわけです。
ちなみに江は秀忠の正室であり、東福門院の母親でした。
幼少期から一流の美術品や美しい着物に囲まれて育った光琳は、おのずと優れた美的センスを養っていました。このことが後に身を助けるのです。持って生まれた才能に加え、独自の感性が育つ土壌を築いたといえるでしょう。
若い頃に狩野派の技法を学んではいましたが、光琳は本気で絵師になるつもりはなかったようです。
実家が裕福だったこともあり、定職に就かずとも困りませんでした。いわゆるニートで、金遣いが荒いという困った性分の持ち主だったのです。
そんな生活がいつまでも続くわけはなく、30代になると人生の転機が訪れました。
40代にして絵師を志す
1678年に、雁金屋最大の取引先だった東福門院が逝去しました。
折しも江戸初期に流行した「特権商人型」のビジネスが時代遅れになりつつあり、家業は徐々に傾いていきます。
そこで雁金屋は大名貸しに手を出すも、呉服商と金融業の両立は容易ではありませんでした。貸したお金の大半は回収不能となり、さらなる困窮を招きます。
そんな状況でも、光琳は倹約生活になじめませんでした。
東福門院の死から9年後の1687年、光琳が30歳のときに父が鬼籍に入ります。
多額の遺産を相続するも、派手な遊興をやめられずに財産は目減りする一方。弟の乾山から借金して何とか凌いでいたものの、次第に首が回らなくなりました。
こうして光琳は自活の道を迫られ、絵筆を持つ必要に迫られたのです。
当時すでに39歳、通常なら無謀としかいいようのない選択でした。本気で絵の修行をするなら、10代で絵師の門下に入るのが常識だったからです。
しかし光琳には人並み外れた技術がありました。少年時代に培った美的センスと相まって、埋もれていた才能を開花させていきます。
光琳は44歳のときに宮廷から「法橋」の称号を賜ります。その背景には、足しげく出入りしていた公家の五摂家・九条家の口添えがあったようです。
この直後に代表作となる「燕子花図屏風」を描きました。
江戸へ出稼ぎに行く
京都で活躍していた光琳を公私にわたり支援したのは、中村内蔵助という役人です。
銀座(銀貨の鋳造所)の重職を務めた人物で、相当な資産を有していました。つまり大事なパトロンだったのです。
1704年3月に中村内蔵助が江戸へ向かうと、光琳は同年10月に京都を発ちます。内蔵助の伝手で幕府の重役とつながり、江戸の大名たちから絵の依頼が舞い込みました。
その中に姫路藩の酒井家も含まれており、これが後に酒井抱一による江戸琳派へつながるきっかけになるのです。
というのも、酒井抱一は姫路藩主の弟でした。光琳が屋敷に出入りしていたため、何らかの形で彼の作品を知ったのでしょう。
江戸に滞在した期間はおよそ5年ほど。堅苦しい大名家での出仕は、光琳にとって息苦しかったようです。その証拠に、知人に宛てた手紙で「京都に帰りたい」と愚痴をこぼしています。
精神的な苦痛はあったものの、苦労と引き換えに大きな成果も得ました。雪舟と雪村の研究に励み、新たな表現を習得したのです。
若い時分に苦労らしい苦労をしてこなかった光琳にとって、江戸での暮らしは良い刺激になったでしょう。
もしずっと京都でぬくぬく暮らしていたら、彼は絵師として大成しなかったと断言できます。
帰京から晩年まで
気苦労の多い出仕生活、いわばサラリーマン時代に終止符を打ったのは1709年のことです。春ごろに京都へ帰った光琳は、絵所(画室)つきの屋敷の建築に着手しました。
以後の足掛け8年間は、絵師としての円熟期といえるでしょう。
亡くなるまで画業に没頭し、後世に残る名作の数々を生み出しました。たとえば「紅白梅図屏風」は、誰もが知っているのではないでしょうか。
江戸滞在で身につけた知見は、画風を広げるうえで大いに役立ちました。最晩年の活躍は、あの5年間なくして存在しなかったはずです。
依頼をこなす一方で、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」の模写にも取り組んでいます。
弟の乾山とも仕事をしており、彼が作った焼き物に絵付けをしました。また乾山の書と光琳の絵をセットにした作品は、乾山焼の特製品として売り出されています。
1716年6月2日、光琳は59歳で没しました。
遅咲きながらも運と才能に恵まれ、さらに努力で腕を磨いた天才絵師。
もっと早くに絵の修行をしていたなら、おそらく今以上に有名になっていたでしょう。
2. 尾形光琳の3つの代表作
続いては、光琳の代表作について解説します。
いずれも有名な作品ですので、どこかで目にしているかもし
燕子花図屏風
東京の根津美術館が所蔵している六曲一双の屏風。画家として自立した時期に制作された初期の傑作で、国宝に指定されています。
使われている色数は少ないにもかかわらず、見事なまでに豪華絢爛な仕上がり。
その秘密は、顔料(岩絵の具)にあるのです。燕子花の花は群青、葉の部分は緑青で描かれました。平面的ではあるものの、単調に見えないのは光琳の腕が成せる業でしょう。
この燕子花、よく観察すると同じパターンの部分が見受けられます。型紙を用いたと推測されており、非常に画期的な手法でした。
生家の雁金屋には着物のデザイン画があったため、そこから閃いたのでしょう。呉服商の息子ならではの発想ですね。
燕子花はアヤメと似ていますが、水生植物であることから容易に見分けがつきます。
日本庭園の池に植えられる場合が多く、和の趣きを醸し出すのに最適でしょう。
ツバメが羽を広げている姿を連想させることから、その名に「燕」の一文字が入っています。
余談ですが、根津美術館では毎年4月下旬から5月上旬にかけて庭を一般公開します。一面に咲き誇る燕子花を眺められる貴重な機会ですので、足を運んでみてはいかがでしょうか。
八橋図屏風
光琳が京都に戻ってきた頃に描かれたとされ、メトロポリタン美術館が所有しています。伊勢物語の「東下り」という話を下敷きにしているといわれており、橋はそのエピソードに由来するモチーフです。
「燕子花図屏風」と同様のモチーフを採用していますが、江戸滞在を経てより技法に深みが増しました。
具体的に述べると、明るく写実的な画風に変化しているのがわかります。そしてデザイン化された意匠も特徴といえるでしょう。
まず目を引くのは、天地を貫く橋。「たらしこみ」という技法を使って表現されています。
ちなみにこの作品では、型紙を用いずに燕子花を描いているようですね。1つとして同じ形の花がありません。
紅白梅図屏風
光琳の集大成となる作品で、やはり国宝に指定されています。
所蔵しているのは、静岡県熱海市にあるMOA美術館。
この作品を描く前に、光琳は俵屋宗達の「風神雷神図屏風」を模写しました。2つを重ねてみると、ほぼ同じ構図になっています。二曲一双である点も共通しており、光琳が宗達から多大な影響を受けたことが読み取れるのではないでしょうか。
これぞ写実美・様式美の極地といっても過言ではありません。
うねる川を挟んで向かい合う老木の白梅と、若木の紅梅の対比が美しいですね。
妙に存在感のある川には「光琳波」と呼ばれる意匠が描きこまれていて、主役であるはずの梅よりも目立っているのです。
当時は夜に梅を愛でる文化があり、そこから黒い川は夜の闇を象徴しているとする説が有力視されています。
梅の原産地は中国で、飛鳥時代に日本へ伝わりました。当初は薬として使われていたそうです。一般的に2月から3月にかけて見頃を迎え、春の到来を告げる花として知られています。
もともと和歌の世界では、「花」といえば梅を意味していました。古代から日本人に愛されてきた梅は、もはや和の庭園に欠かせない樹木の一種になっています。
3. 非凡な才能と運に恵まれた絵師
もし光琳が現代に生きていたら、画家やデザイナーとして活躍していたでしょう。
それほど優れたセンスと卓越した技術を持っており、真新しさを感じさせる作品を残しました。
惜しむらくは、若い頃に努力しなかったことです。青年時代は経済的に恵まれていたため、あくせく働く必要がありませんでした。
皮肉にも家業が傾いたおかげで、絵師・光琳は誕生したのです。たった15年ほどの画業で後世に名を残したのは、まさに奇跡としかいいようがないでしょう。
これから梅と燕子花を見に行く機会があれば、尾形光琳の屏風絵を思い浮かべつつ鑑賞してみてください。風流で雅な気分になれるかもしれません。